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DERIVATION 銘仙(めいせん)の由来
昭和8年撮影 めいせん店
栄町(現 伊勢崎市曲輪町)
江戸末期の小咄(こばなし)より
めいせん
客 「カネが三ッばんだ。近いと見えるナ。」
花魁「お客様が心配するからみようか。」
雨戸をあけて、しきりに眺める。
花魁「とおざんす。めえせん!」
江戸時代末期の話
というのが何かの赤本にあったと・・・
*唐桟(とうざん) 木綿の縞織物
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伊勢崎史談会(渡辺敦)昭和33年4月発行 機関紙 伊勢崎史話第2号より
ネーミング戦略に成功
明治21年(1888)頃から「伊勢崎太織」が「伊勢崎銘仙」と呼ばれるようになった
太織(ふとり ふとおり)の名称を当時の女性がどの様に思ったかはわからないが 現在では
NG用語である
さて、銘仙の由来であるが昭和6年(1931)に発行
した「伊勢崎織物同業組合史 五十年史」に詳しく
紹介している
この組合史の冒頭で組長 下城雄索氏(初代)の「序」に
続き「編集を終りて」で理事の羽鳥升平(はとり しょう
へい)氏が銘仙語源の薀蓄(うんちく 豊富な知識)を語
っている
羽鳥升平(1880~1958) 群馬県佐波郡玉村町生
群馬師範学校卒 教育者 参考文献:群馬県人名大事典
伊勢崎織物同業組合史 昭和6年発行 伊勢崎市立図書館で閲覧可能
古本市場で10,000円程度で購入可能
また、著作権切れのためネットで閲覧出来ます
国立国会図書館デジタルコレクション
織物組合は組合史作成のために羽鳥升平氏を理事に迎え、編集特別委員に委嘱した
この組合史が昭和41年発行の「伊勢崎織物史 八十年史」、昭和58年発行の「伊勢崎
織物組合百年史」や他の織物産地の組合史のベースとなり、銘仙研究家のバイブル的存在とな
っている
羽鳥升平氏は「銘仙」を2段論法で解説している
1、仮名(かな)の「めいせん」について
「めいせん」が一般に使われる様になったのは明治21~22年頃である
東京日本橋南伝馬町に伊勢崎太織の販売店が赤に白で「めいせんや」と
仮名で染抜きした旗を揚げた
語源は古く天明時代(1980年代)に綿密な織物の総称を
目専(めせん)、目千(めせん)と言われこれが転訛した説である
2、漢字の「銘仙」について
明治30年初期に東京三越店において「銘撰」として販売した
「銘撰」と仮名の「めいせん」とはつながりは無く
「銘々撰定(めいめいせんてい)」の意味である
「銘撰」の「撰」が「仙」に変わった説である
「銘仙」は「銘々凡俗を超越したものである」との謂ひである
イメージイラスト
「めいせんや」を発見
「めいせんや」の幟(のぼり)を立てたのは東京日本橋南伝馬町に開店した
伊勢崎太織の販売店は「伊勢崎織物商会」とある
「伊勢崎織物商会」は明治22年(1889)頃に三郷村の小暮録郎や名和村の
野村藤太らが出資したものである
伊勢崎市太田町の小暮家の文書で明治27年(1894)7月「伊勢崎織物商会」
から小暮録郎宛のはがきに「銘仙」の文字が年号のわかる資料の初出とある
参考資料:伊勢崎織物の歴史 平成12年 監物聖善(けんもつ まさよし)著
小暮録郎(こぐれ ろくろう) 嘉永7年(1854)~明治41年(1908)
三郷村(現 伊勢崎市太田町) 県会議員、当HPで徳江製糸場を参照
野村藤太(のむら とうた) 嘉永6年(1853)~明治43年(1910)
名和村(現 伊勢崎市堀口町) 県会議員、製糸・染色・織物買継を行う
武藤和夫氏の新説
銘仙研究家の武藤和夫氏が
既に羽鳥升平氏による東京伝馬町販売店の「めいせん
や」説、「目専、目千の転訛説」「三越の銘選説」
「銘々選定説」などがあるが新たな説を見つけた
江戸後期の風俗を綴った喜田川守貞(きたがわ もり
さだ 1810~ ?)の著書「守貞慢稿」から
「
蠒繊織(めいせんおり)真綿をひいた糸を織った
織物で略服に用いられる」と書かれた文書を発見した
著作権切れのためネットで閲覧出来ます
国立国会図書館デジタルコレクション
銘仙の由来(語源) 最近の動向
ちちぶ銘仙館でいただいたパンフレットや秩父市の「市報ちちぶ」平成28年8月号等
によると
1719(享保4年) 知々夫(ちちぶ)で初めて
蠒繊(めいせん)と呼称
1788(天明8年) 「絹布重宝記」に「目専太織、織目の堅牢を専一とし、外観の美
を行をざる実用向きの義より出でたるものの如し」と記述
1853(嘉永6年) 喜田川守貞の著書「守貞慢稿」に記述
*平成25年12月に秩父銘仙が国の伝統的工芸品指定にあたり調査したものと思われる