伊勢崎銘仙アーカイブス

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 高崎五万石騒動







 高崎五万石騒動とは、
明治2年(1869)に高崎藩でおきた
年貢減免を目的とした百姓一揆である










 高崎五万石騒動に関する図書・資料等はごまん(五万)とある
  レファレンス協同データベースにて  高崎五万石騒動

 *管理人(私)の曾祖父が、大総代の高井喜三郎の三女と婚姻





 墓の場所
 高崎市中居町2-3
 進雄神社(すさのう じんじゃ)の西400m














 義人辞世

 「吾人の為ともなれと身を捨てゝ
  いまいけにへとなるぞうれしき」

  昭和五十四年九月 大類村史編集委員会建立

  吾(われ) 人の為ともなれと身を捨てて
  今 生け贄(いけにえ)となるぞ 嬉しき























   義人 高井喜三郎の墓

  江戸時代高崎藩城付五万石の農民は、全国一といわれる程の重税に苦しんで来ました。
  明治二年、長雨のため不作になり夏頃より村々の代表が寄合を開いて相談し維新になった
 のだから同じ高崎藩内の新領並みに減税して、農民が農業で生活できるよう要求すること
 を決めました。
  この時大総代に選ばれたのが柴崎村の高井喜三郎らの三人です。明治二年十月十七日蓑笠
 を着た四、四〇〇人余りの農民が天王の森に集まって大総代を先頭に村々の旗を立てて静か
 高崎城下へ押し寄せ、嘆願書を提出しました。
  しかし高崎藩主、大河内輝声(おおこうち てるな)はその年限りで大豆と馬の飼料の減額
 しか聞き入れません。そこで農民は岩鼻県知事に訴え政府に歎願書を出しました。
 これに対し高崎藩は三総代を強訴(ごうそ)の罪で逮捕し、明治三年二月四日の早朝江木村
 の無縁堂で斬首(ざんしゅ)しました。(行年四十二才)
  今のような民主主義の時代になる前に農民の生活を守るため、一命を捧げられた行為を
 郷土の人々が永く忘れないようこの案内板を建てます。

                  平成四年九月秋分の日 大類歴史研究会









 高崎五万石騒動(たかさき ごまんごく そうどう)とは

   百姓一揆(ひゃくしょう いっき)である
   いつ  明治2年(1869)
   どこで 群馬県高崎市(現在)
       高崎藩領8万2千石、飛地(とびち)を除いた城付領5万石で発生

















 出典・参考・蔵書

  「開化高崎控帖」 昭和48年  発行 高崎市役所
           巻之三 P143~153 高崎五万石騒動(1)~(4)
           著者 金井恒好

  「鼎(かなえ)」 昭和50年2月号 発行 あさを社
           特集「高崎五万石騒動」 著者 清水昇

  「高崎の産業と経済の歴史」 昭和54年 発行 高崎経済大学付属産業研究所
           P59~103 高崎五万石騒動 著者 山崎益吉

  「高崎 五万石騒動」 昭和62年 発行 あさを社 著者 利根川靖幸


   DVD 復刻 電子紙芝居 ダイジェスト版 「高崎五万石騒動」 平成19年
        編集著作 高崎五万石騒動研究会 制作 ミントアプリケーションズ(株)

  「ものがたり 高崎五万石騒動 彩どられた稜線と稲穂」 平成22年
         著者 星野進乎 発行 高崎五万石騒動研究会

  「高崎五万石騒動かるた」 平成22年
         著者 星野進乎 発行 高崎五万石騒動研究会