諸家の観たる石川泰三翁 |
(大沢一郎) 吉田茂翁の如きもので、誰からも怖(おそ)れられ、亦敬(うや)まわられた方。 (下城雄策) 政治家として「先見の明」・「見透しと決断」の二大要素をかね備えた市政治上まれに みる大人物。 (中島徳蔵) 精神的活動では、上州の一角に佐位那波郡が常に一歩他に抜ンでて居たのは翁の功。 早く田舎に落ちつかず兎に角政治の中心地を離れなかったら・・・清浦以上の総理さへ 得られただろうと想像する。 |
年齢 |
町長としての治績(ちせき 政治上の功績)
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大正4年 | 63 | 3月27日 伊勢崎町長に就任 |
〃 | 4月1日 町立伊勢崎実科高等女学校(現 県立伊勢崎清明高)設立 | |
〃 | 9月17日 町章(現 市章)を制定 曲玉2個を抱き合わせ円形 (考案は前町長の大野和信氏が明治44年制定との説もあり) |
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大正5年 | 64 | 伊勢崎町報(現 広報いせさき)を発行 毎月5日 月刊 |
〃 | 自治講話会18回 「葬式改良論」等 町区内毎に開催 町長ら町政を説明 |
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大正6年 | 65 | 2月22日 奨学資金の設置 |
〃 | 3月20日 町立商工補習学校(現 県立伊勢崎商業高等学校)設立 | |
大正7年 | 66 | 職業紹介所設置 |
大正8年 | 67 | 7月25日 母 栄子逝去、神葬祭で簡素な葬儀を自ら執り行う 冠婚葬祭の簡素化を提唱していた(現 新生活運動の先駆け) |
大正9年 | 68 | 佐波郡立佐波農業学校 (現 県立伊勢崎興陽高等学校)設立 (中学校は設置せず) |
大正10年 | 69 | 町立伊勢崎図書館を独立 |
〃 | 「町行政改善アンケート」を町民に配布し実施 | |
大正12年 | 71 | 伊勢崎耕地整理組合を設立 |
〃 | 方面委員(現 民生委員)を設置 群馬県下初 | |
大正13年 | 72 | 六間道路開通 |
大正15年 | 74 | 11月 町役場庁舎完成 |
昭和2年 | 75 | 新開橋の完成、県道伊勢崎前橋線の開通 |
昭和4年 | 77 | 桐生新道(県道)開通 |
〃 | 77 | 伊勢崎郵便局の局舎完成 |
昭和5年 | 78 | 南小学校校舎を町外の茂呂村に完成 全国でも例がない 昭和15年の茂呂村との合併への繋がった |
〃 | 「銘仙週間」を実施 | |
〃 | 10月 公益質屋の設置(伊勢屋)して 庶民金融の便宜を図る | |
昭和6年 | 79 | 伊勢崎競馬場開設(現 新栄町)昭和14年に軍馬供出で廃止 競馬コースの内側に公認競技場を設置し陸上・野球・庭球・相撲大会 を開催した |
昭和7年 | 80 | 夏祭りを7月20~23日の3日間、 お盆は1か月遅れの8月14~16日と改めた |
昭和7年 | 80 | 12月 伊勢崎町長を辞任 |
石川泰三翁のエピソード |
平野水(ひらのすい) 石川泰三は酒は飲めなかった 宴会の席では酒に代わり、平野水と云う炭酸水を飲んで いた。 幻灯会事件(げんとうかいじけん) 明治18年(1885)7月23日 石川泰三(33歳)が教師を対象に科学学習の 幻灯会を開催したところ、警察官より暗闇での集会を禁止され罰金50銭が申し渡された 僅かな罰金であったが、裁判に持ち込み勝訴した。 翁の見識(おうのけんしき) 大正14年(1925)石川泰三町長に茂呂村の有志が「村は水不足で町用水を回して 欲しい」と要望するが、石川泰三町長は「町用水は一滴も差し上げられぬ」と断った。 石川泰三町長は、担当者に対して「直ぐに町用水を茂呂村に回すように」と指示した。 「要求に依(よ)って通水すれば先方の権利となる、慣例ともなる、それを断って置いて 開けるのは当方の都合である・・・後に禍根を残さない」 |
年齢 | できごと | |
嘉永元年 1853 |
1 | 12月26日伊勢崎町168番地(現 本町2丁目)に誕生 父 石川武八(たけはち)は幼時に失明し三味線の名手 芸名を勘六 母 栄子(えいこ)は仕出屋で鰻料理が有名 |
元治元年 1864 |
12 | 細野時敏の推挙で設楽天僕(したら てんぼく)の日精堂学舎(にっせい どうがくしゃ)に学ぶ |
明治3年 1870 |
18 | 12月18日 郷学 責善堂の肝煎(きもいり 教員助手) |
明治5年 1872 |
20 | 志を立て東京に遊学、渋沢喜作の家に寄宿し、 (細野時敏の妻 和可は渋沢喜作の姉) 尾高淳忠(おだか あつただ 富岡製糸場の初代場長)に学ぶ |
明治6年 1873 |
21 | 設楽天僕に招かれて、赤石学校の教員となる |
明治10年 1877 |
25 | 本町の生家の借地が売却され、 栄町(現 曲輪町)に移転し 書店「栄新堂」を開業する 10月4日 星野久満子(くまこ) 21歳と結婚 安政3年(1856) 生れ |
明治11年 1878 |
26 | 9月 卓然協同社(たくぜん きょうどうしゃ 政治結社)を武孫平、 野村藤太 等と結成 |
明治12年 1878 |
27 | 4月20日 伊勢崎町々会議員に当選 |
明治13年 1880 |
28 | 回天義塾(かいてんぎじゅく)を設立 兵法も含まれた 通信教育の嚆矢(こうし 先駆け) |
明治15年 1882 |
30 | 1月26日 父 武八 逝去63歳 12月20日 赤石学校へ金拾円を寄付し、県から木盃を賜る |
明治18年 1885 |
33 | 7月23日 幻灯会事件 |
明治19年 1886 |
34 | 3月21日 細野時敏 逝去65歳 石川泰三は細野時敏への恩返しとして、葬儀万端の世話を引き受けた |
明治21年 1888 |
36 | 佐位那波郡高等小学校新築費として金拾円を寄付 |
明治24年 1891 |
39 | 群馬県属(県の職員)に任ぜらる |
明治28年 1895 |
43 | 群馬県商工課から出張 4月1日~7月31日 第四回内国勧業博覧会 京都市岡崎公園 伊勢崎織物の宣伝に従事 |
明治29年 1896 |
44 | 4月28日 吾妻郡長 6月30日 正八位(しょうはちい)に叙せられる |
明治30年 1897 |
45 | 10月11日 従七位(じゅうしちい)に叙せられる |
明治33年 1900 |
48 | 3月12日 佐波郡長 |
明治37年 1904 |
52 | 3月発行「群馬県営業便覧」の地図では石川泰三は西町(現 三光町)に 居住している |
明治38年 1905 |
53 | 勲六等に叙せられ、瑞宝章を授けられる |
明治39年 1906 |
54 | 2月 従六位 4月 勲五等 雙光旭日章 6月 山田郡長に転任 |
明治42年 1909 |
57 | 2月 勢多郡長に転任 |
大正2年 1913 |
60 | 5月31日 勲四等に叙せられ、瑞宝章を授けられる 7月29日 妻 久満子 逝去58歳 9月30日 願に依って、勢多郡長を免ぜられる 11月1日 従五位に叙せられる |
大正3年 1914 |
61 | 1月 武孫平の 弟 久宜(ひさのぶ)を養嗣子(ようしし 家督相続人 となる養子)に迎える 3月8日 横山マサ子 37歳と再婚する 昭和26年1月26日逝去75歳 |
大正4年 1915 |
62 | 3月27日 伊勢崎町 町長 に当選(第4代) |
大正5年 1916 |
63 | 石川町長「いせざき駅」を「いせさき駅」に 呼称変更を要請する 6月18日 前代議士 細野次郎葬儀 東京芝高輪 東禅寺 |
大正8年 1919 |
66 | 7月25日 母 英子 逝去 86歳 |
大正12年 1923 |
71 | 7月7日 町長を辞任 8月13日 町長に再任(復帰) |
昭和5年 1929 |
78 | 「銘仙週間」実施、芸妓に銘仙を着用させる |
昭和7年 1932 |
80 | 12月 伊勢崎町 町長 退任 |
昭和8年 1933 |
81 | 3月 伊勢崎町 町会議員 当選 |
昭和10年 1935 |
83 | 7月 伊勢崎町より感謝状と功労金1万円が贈られる |
昭和15年 1939 |
88 | 1月 町協議会合併委員会 相談役 9月13日 伊勢崎市制施行 開庁式で石川泰三の万歳三唱 11月 初代市長に石川泰三の推薦説も浮上する 12月26日(誕生日) 従五位勲四等石川泰三翁寿像記 撰並書 前伊勢崎小学校長 未至磨大洲(みしま たいしゅう) |
昭和16年 1940 |
89 | 1月26日 米寿を祝い銅像(寿像)を市庁舎北に建設、 銅像記の揮毫は未至磨大洲、翌日に銅像撤去 |
昭和18年 1943 |
91 | 3月23日 銅像を金属回収令にて供出 9月13日 銅像に換え、石像除幕式挙行 12月22日 逝去 菩提寺は本光寺、墓誌撰並書は未至磨大洲 |
昭和19年 1944 |
3月26日 故石川泰三翁の市葬が北国民学校(現 北小)講堂で行われる | |
昭和26年 1951 |
1月26日 故石川泰三翁の後妻 マサ子 逝去(75歳) | |
昭和43年 1968 |
5月30日 市役所新庁舎が今泉町に落成 10月 故石川泰三翁の石像を移設 |
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平成29年 2017 |
12月25日 「伊勢崎市石川泰三教育みらい基金」を設置 祖父 石川泰三翁の遺志を継いだ孫の石川昭三氏の篤志による 子供たちが国際的に活躍するための教育に必要な事業の財源に充てる |
拠出者芳名 | 職業・所属等 |
伊勢崎町 | |
佐波郡農会 | |
伊勢崎耕地整理組合 | |
伊勢崎織物同業組合 | |
佐波新田用水耕地整理組合 | |
境倉庫株式会社 | |
伊勢崎町方面事業助成会 | |
伊勢崎町農会 | |
板垣清平 | 第2代目 板垣清平 いせもく社長 |
板垣源四郎 | 初代伊勢崎市長 |
武孫平 | 第11代武孫平(宜教)運送業、弟の久宜が石川泰三の養子 |
山田喜作 | 土木工事業 臺石制作者 華蔵寺公園の燈台寄付者 |
下城好雄 | 下城弥一郎の次男、買継商、第2代伊勢崎市議長 |
大島宗平 | 肥料商 西町から中央町へ移転 |
井下辰雄 | 第23代 織物同業組合 組合長、商工会議所 初代会頭 |
板垣籐平 | 不明 |
橋本末吉 | 大津屋 新生会設立 |
橋本勝 | 伊勢崎市議会議員 |
橋本康治 | 伊勢崎織物同業組合 評議員 |
羽尾四郎 | 商工会議所(商工業報国会 )副会長、織物組合評議員 |
本間千代吉 | 第2代目 本間千代吉、貴族院議員 |
星野源左衛門 | 第7代伊勢崎町長 |
星野善作 | 伊勢崎織物同業組合 評議員 |
大沢三郎 | 第2代伊勢崎市長 |
荻原喜代次 | 第24代織物同業組合 組合長 |
吉沢惟雄 | 結核治療医、県会議員 |
中沢豊七 | 第6代伊勢崎市長 |
山田●六 | 不明 |
小暮重三郎 | 第21代織物同業組合 組合長 |
天田清三郎 | 織物同業組合 副組合長 |
佐藤籐三郎 | 佐藤籐三郎商店 糸商 |
斎藤幸太郎 | 佐波郷友会 |
下城虎次 | 第20代織物同業組合 組合長 |
下城雄策 | 第18代 織物同業組合 組合長 |
平田吾郎 | 第19代織物同業組合 組合長 |
瀬下実 | 山楽荘 料理店 |
森村堯太 | 第2代目 森村堯太(良策)、 銀行家 |
杉原傳七郎 | 酒造業(杉原酒造) |
星野貞活 | 不明 |
会長 | 星野源左衛門 | 第7代伊勢崎町長 |
特別委員 | 板垣源四郎 | 第6代伊勢崎町長 僅か11日間で辞任、後に初代伊勢崎市長 |
羽鳥升平 | 伊勢崎織物同業組合理事、組合史を編集 | |
大島宗平 | 商工会議所(商工業報国会 )会長 | |
大沢三郎 | 第2代伊勢崎市長 | |
太田鷲雄 | 不明 | |
鎌塚芳五郎 | 第3代伊勢崎市議長 | |
武孫平 | 第11代武孫平(宜教)運送業、弟の久宜が石川泰三の養子 | |
中島新三郎 | 伊勢崎市議会議員 | |
佐藤籐三郎 | 佐藤籐三郎商店 糸商 | |
下城好雄 | 下城弥一郎の次男、買継商、伊勢崎市初代議長 | |
白石海 | 伊勢崎織物同業組合 評議員 | |
森村茂樹 | 宮郷村長 |
石川泰三 | 1853(嘉永6年) 1943(昭和18年)12月22日 享年91歳 |
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下城弥一郎 | 1853(嘉永6年) 1905(明治38年) 享年52歳 |
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武孫平(第10代) | 1859(安政6年) 1911(明治44年) 享年53歳 |
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中島徳蔵 | 1864(元治元年) 1940(昭和15年) 享年77歳 |
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星野源左衛門 | 1872(明治5年) 1943(昭和18年)2月10日 享年72歳 |
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没年月日 | 享年 | ||
父 | 石川勘六(武八) | 明治15年(1882)1月26日 | 63歳 |
母 | 須藤栄子 | 大正8年(1919)7月25日 | 86歳 |
従五位勲四等 | 石川泰三 | 昭和18年(1943)12月22日 | 91歳 |
孺人(じゅじん) | 石川久満子 | 大正2年(1914) | 58歳 |
継妻 | 石川政子 | 昭和26年(1951)1月26日 | 75歳 |
西 暦 | 和 暦 | 織物総生産数 (千反) |
生産金額 (千円) |
できごと |
1912 | 大正 元 | 1,273 | 4,698 | 銘仙景気で芸妓が150人 |
1913 | 大正 2 | 1,144 | 4,599 | |
1914 | 大正 3 | 1,068 | 4,289 | |
1915 | 大正 4 | 901 | 3,792 | 石川泰三 伊勢崎町長に就任 |
1916 | 大正 5 | 1,084 | 6,408 | |
1917 | 大正 6 | 1,254 | 9,345 | |
1918 | 大正 7 | 1,641 | 15,977 | |
1919 | 大正 8 | 1,996 | 29,727 | |
1920 | 大正 9 | 2,100 | 28,077 | |
1921 | 大正10 | 3,140 | 35,292 | 群馬県の予算6,190千円 |
1922 | 大正11 | 3,124 | 32,752 | |
1923 | 大正12 | 3,137 | 33,240 | 9月1日 関東大震災 |
1924 | 大正13 | 3,165 | 35,030 | |
1925 | 大正14 | 2,986 | 33,011 | |
1926 | 昭和 元 | 3,121 | 32,339 | |
1927 | 昭和 2 | 3,629 | 33,586 | |
1928 | 昭和 3 | 4,119 | 38,121 | 水谷八重子をポスターに起用 |
1929 | 昭和 4 | 3,890 | 37,000 | 埼玉県本庄地区が編入 |
1930 | 昭和 5 | 4,565 | 40,000 | 456万反 |
1931 | 昭和 6 | 4,140 | 24,887 | |
1932 | 昭和 7 | 3,853 | 23,111 | 石川泰三 伊勢崎町長を辞任 |
1933 | 昭和 8 | 3,023 | 不明 | |
1934 | 昭和 9 | 3,002 | 不明 | |
1935 | 昭和10 | 2,758 | 19,622 | |
1936 | 昭和11 | 2,156 | 15,870 |
年 度 | 伊勢崎町 歳入 (円) |
伊勢崎町 歳出 (円) |
伊勢崎織物 数量(万反) |
伊勢崎織物 価格(万円) |
平均単価 円/反 |
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大正 4年 | 45,255 | 42,539 | 90 | 379 | 4.21 | |
大正 8年 | 125,150 | 118,567 | 200 | 2,973 | 15.00 | |
大正13年 | 360,957 | 213,719 | 317 | 3,503 | 11.10 | |
昭和 元年 | 377,636 | 337,370 | 312 | 3,234 | 10.41 | |
昭和 2年 | ー | ー | 363 | 3,359 | 9.29 | |
昭和 3年 | 313,288 | 281,163 | 412 | 3,812 | 9.29 | |
昭和 4年 | 468,847 | 406,675 | 389 | ー | ー | |
昭和 5年 | ー | ー | 456 | ー | ー | |
昭和 6年 | ー | ー | 414 | 2,489 | 6.01 | |
昭和 7年 | ー | ー | 385 | 2,311 | 6.00 | |
昭和 8年 | ー | ー | 302 | ー | ー | |
昭和 9年 | ー | ー | 300 | ー | ー | |
昭和10年 | ー | ー | 276 | 1,962 | 7.11 | |
昭和11年 | ー | ー | 216 | 1,587 | 7.35 |
就任年月 | 在任期間 | |||
初代 町長 | 武孫平 | 明治22年(1889)5月 | 6年 | 第10代 宜昭 |
2代 | 石原蔵臧 | 明治28年(1895)4月 | 14年 | |
3代 | 大野和信 | 明治42年(1909)4月 | 6年 | |
4代 | 石川泰三 | 大正4年(1915)3月 | 8年 | 大正12年7月 辞職 |
5代 | 石川泰三 | 大正12年(1923)8月 | 10年 | 復帰 |
6代 | 天笠久真三 | 昭和8年(1933)1月 | 4年 | 野間清治の 講談社勤務 |
7代 | 板垣源四郎 | 昭和12年(1937)2月 | 2ヶ月 | 辞任 |
8代 | 星野源左衛門 | 昭和12年(1937)4月 | 3年6ヶ月 | 昭和15年9月 解町 |
初代 市長 | 板垣源四郎 | 昭和15年(1940)11月 | 6年 | 昭和21年11月 公職追放前に辞任 |
2代 | 斎藤弥三郎 | 昭和22年(1947)4月 | 4年 | 初の公選市長 医師 |
3代 | 大沢三郎 | 昭和26年(1951)5月 | 4年 | 医師 県会議員 |
4代 | 久保田三郎 | 昭和30年(1955)5月 | 4年 | |
5代 | 下城義三郎 | 昭和34年(1959)5月 | 4年 | |
6代 | 中沢豊七 | 昭和38年(1962)5月 | 4年 | |
7代 | 下城義三郎 | 昭和42年(1967)5月 | 3年 | |
8代 | 下城雄策 | 昭和45年(1970)5月 | 22年9ヶ月 | 全国市長会副会長 |
9代 | 髙橋基樹 | 平成5年(1993)3月 | 8年 | |
10代 | 矢内一雄 | 平成13年(2001)1月 | 8年 | |
11代 | 五十嵐清隆 | 平成21年(2009)1月 | 予定12年 |