伊勢崎銘仙アーカイブス

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MANAGEMENT 経営




  昭和51年から4年間伊勢崎織物工業組合の理事長をされた小林博次氏は地元誌に寄稿し
  た記事の中で経済学者ラグナー・ヌルクセの言葉を紹介している。
  「発展途上国にとっての第一歩は繊維工業に始まるが、先進国にとっての斜陽化も
   繊維工業が早くくる。」

  英国も米国も、その過程をふんでおり、わが国繊維産業全般も・・・・と記している。
 化学繊維が開発されるまで、素材は農業より生産された。植物繊維(綿・麻等)、動物繊維
 (繭・ウール等)である。伊勢崎産地では農家の副業として繭をつくり農閑期に糸を紡ぎ、
 機織りし、太織(その後、銘仙と称する)をつくった。
 この太織が好評で全国へ販売されることになり「品質と生産性の向上」が要求された。
 売れるとなると多くの機屋が進出し、一部から粗悪品が作られ産地全体のイメージダウンへ
 と繋がったのである。烏合の衆の「一人機屋」の集団をどう統制するかが課題で、伊勢崎太
 織会社(伊勢崎織物業組合の前身)を設立し機屋を纏めた。その後は織物組合が中心で産地
 と傘下の機屋をマネージメントしていくことになる。

 織物組合によるマネージメント(明治13年以降
  1)組合で染色講習所を設立し、最新の化学染色を導入した
  2)検査体制を確立した 合格した反物に合格証を貼る
  3)新しい技術・技法や素材の導入を図った
  4)高機を導入し生産の効率化を図った
  5)新しい販売先を開拓した
  6)組合役員は常に先見性を持ち、国等の施策をいち早く産地に取り入れた
  小規模の「一人機屋」にとって織物組合の存在意義は大きい

 織物組合は三つの機関より成り立っている(昭和42年以降)
  一口に織物組合と言っても、三つの機関より成り立っている
 1)伊勢崎織物工業組合 伊勢崎市を中心に決められた地域の機屋で構成されている
             設立の条件は厳しく、同じ地域内に同様の組合は設立出来ない
 2)伊勢崎織物協同組合 地域は工業組合と同じとするが、組合員の構成は機屋を中心に
             関連する業種(糸商、買継商、染色業、整理業等)が広く加入
             している また、協同組合の設立は容易である
             組合員数は工業組合の約2倍
 3)一般財団法人伊勢崎銘仙会館
             昭和19年の伊勢崎織物工業組合(第一次)の解散に伴って
             資産管理目的に設立した
  この三つの組織が有機的に機能し、産地活性化を図ってきたと言える

 機屋の経営上の問題点は何か ?

 1)機屋は販売機能を持たない 
   地元の買継商に依存する 買継商の選択は大きな課題である 買継商への銘仙の販売だけ
   でなく、買継商から意匠のアドバイスや時には融資を受ける 機屋にとって買継商の存在
   は大きい

   呉服業界独自の複雑な流通機構で機屋が売った価格と呉服屋の販売価格との開きは大きい
   現在、伊勢崎銘仙の様な低価格品はあまり扱われてなく、生産量が少なくなった現在は直
   接呉服屋や百貨店に卸している

         現在でも存続している呉服流通機構(下記フローチャート参照)

 地元の買継商

集散地問屋
東京、京都、大阪、名古屋等

全国各地の地方問屋 

 呉服屋・百貨店

 2)意匠で全てが決まる
   機屋が「糸代にもならない」とか「染めない白地のほうが金になる」と言う
   銘仙の意匠に失敗すると、売れなく赤字になる
   川下の問屋・呉服屋・百貨店からの売れ筋情報を基に意匠を練ったり、柄見本帳を参考に
   する。手っ取り速く、売れている意匠を真似ることもある

 3)安定した下職の確保
   「一人機屋」の言葉の意味は機屋は従業員を雇用せずに一人で糸を仕入れ、工程順にいく
   つもの外注先を回り伊勢崎銘仙を完成させる様を表してしる 機回り(はたしまわり)で
   ある
    実際は一人ではなく家族が手伝ったり、規模が大きくなると従業員を雇用している
   さて、本題に戻ると外注に依存する理由は工程毎に手作業による熟練と経験を必要とする
   からである
    そのために、優秀な下職(外注先)を確保することは機屋にとって重要なことである
   先代から取引している下職も多く、家族同様の付き合いをしている
   安定した下職の確保を裏返せば、機屋は一定の仕事を下職に保証しなければならないこと
   になる
   伊勢崎産地では大きな機屋は存在しなく、小規模な機屋が数多く存在した。大正12年の
  新聞記事には伊勢崎産地に機屋が約1,200社あると報じられている。昭和初期の全盛期
  で850社、昭和42年に伊勢崎織物工業組合(第二次)設立時には230社の機屋があっ
  た。
   絣を手機で織り上げる等労働集約型の作業が多く、農家の女性が出機で織り上げ農業をし
  ながらの作業で工場勤務が適さなかったと言える。
  出機を始めとする外注依存経営のため、機屋は設備投資に資金をかけなくても容易に開業で
  きた。当時は必ず身近な親類縁者等に機屋がおり、丁稚奉公を数年し独立できた。
  昭和49年の調査では機屋が170社あり、従業員4人以下の機屋が80%を占め、
  戦後になって機屋を開業した企業が60%を占めていた。産地の歴史は古いけれど戦争で多
  くの機屋が廃業に追い込まれ、戦後は機屋の顔ぶれが大分変った
  
   戦後は昭和31年の292万反の生産高がピークで当時の伊勢崎織物協同組合(機屋と関
  連業種)の組合員数は約1,000社であったが、昭和32年からは減産傾向が続く。
   伊勢崎市では昭和32年伊勢崎市工業設置奨励条例が公布され、工場誘致や工業団地の造
  成に取り組み伊勢崎市は繊維産業に代わって電気産業・自動車産業が盛んになってきた。
   伊勢崎市は工業誘致に成功し産業構造の転換が図られた
   織物業は年配者を残し、子弟は電気産業や自動車産業に勤務するようになった。
  20年くらい前の新聞記事に「都市の年齢」が掲載されていた。群馬県では伊勢崎市が一番
  若く20歳代で高齢は桐生市で60歳代であった。パラメータは人口、工業出荷高、商業販
  売額等で伊勢崎市は全てが増加、桐生市は全てが減少しているのが要因である。
   桐生市は面積の多くが山地で平坦な土地が少なく桐生で育った企業でも市外の工場団地へ
  移転するケースが多い。当時桐生商工会議所の資料では市内には小規模企業数が多く、織物
  関係の企業が多数存在していた。
   平成8年に奈良県の大和高田市の関係者が繊維工業からの転換を検討され、伊勢崎市を成
  功例の視察先として遠路から来市された。伊勢崎市を日本中の中から選んだそうである。
   伊勢崎市の工業担当者と機屋から電気産業へ転換したサンデン(株)の創業者の一人である
  天田鷲之助氏から話を聞いた。