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乃木希典物語
乃木将軍 学習院の制服に伊勢崎銘仙を採用し銘仙の人気高まる
乃木希典(のぎ まれすけ)1849(嘉永2年)~1912(大正元年)
国民からは乃木大将、乃木将軍と呼ばれ日露戦争で旅順を攻略し、
明治41年(1908)に明治天皇から昭和天皇が学習院に入学するに
あたり学習院院長に指名された
乃木式教育方針として「勤勉と質素」を旨として取り組み
「女学部学生及び幼児の服装に関する心得」では
「衣服の地質は綿布・麻布・毛布・紬・銘仙及び交織の類に止む」
とし、実質的には銘仙が採用された
学習院女学部は華族女学校と合併した経緯もあり、女学生は派手な友禅等を着て通学して
いたが「銘仙以下の着物」を着ることになった
当時銘仙は無地で地味な柄であったが伊勢崎をはじめとする銘仙産地では「解模様銘仙」
を開発し、これが学習院の女学生に大好評で、これが更に波及して東京の女学校が相次いで
銘仙を制服に採用した
乃木希典は武士道、騎士道(ドイツ留学歴有り)、軍人魂を有し明治天皇の崩御により妻と
共に殉死
氏の住居があった場所を後に乃木坂と称し乃木坂46の乃木にも使われている
主婦之友 昭和4年10月「銘仙に就ての座談会」より抜粋
伊勢崎織物同業組合 組長 下城雄策の発言
「面白い話があります。ちょっと古いことですが、乃木大将が学習院の院長をしてをられた
頃、生徒の着物に、友禅はどうも贅沢でいけないし、銘仙は固すぎていけない、と言って、
なかなか難しかったさうです。その話が、私共の方に伝りましたので、種々と研究し始め
たのが、今日のやうな模様を織り出す初めでした。」・・・