佐々木長淳(ささき ながあつ) 号 雀洲 享年87歳
文政13年(1830)9月3日~大正5年(1916)1月25日
2024年現在 生誕194年 没後108年
1825年から1830年頃 スイスでは
羊毛紡績のノウハウを活かした絹糸紡績が発達
していた
当時日本では屑繭は二束三文で取引されていた
それがスイスでは生糸に負けない上等の絹糸を
屑繭から造り出していた
絹紡糸は均一で作業性も生糸に比べ良い
(絹紡糸は正に魔法の絹糸)
佐々木長淳 |
福井藩士、上京し 慶応3年(1867)藩命にて渡米、ジョンソン大統領・グラント将軍らと面会する。 明治4年(1871)工部省(現 経済産業省?)勤務 明治6年(1873)ウィーン万国博覧会に派遣されオーストリア、イタリア、 フランス、スイス4ヶ国で、養蚕・製糸・紡績事業を調査。 調査報告書に「日本では廃棄される屑糸・屑繭を西欧では紡績機で絹糸が出来る」と 建議。 明治10年(1877)3月 初代 新町絹糸紡績所所長 大正5年(1916)逝去 享年87歳 墓所 福井県永平寺町 安泰寺 著書 「蚕の夢」、「微粒子病の顛末」等 |
平成21年(2009)11月
「高山社を考える会」で
旧新町紡績所を見学
後の建物は
旧新町紡績所の倉庫
(国指定重要文化財)
所在地 高崎市新町2330
佐々木長淳先生之碑
所在地 高崎市新町2437 鐘紡公園
撮影日 平成28年(2016)2月
佐々木長淳先生之碑
先生諱長淳號雀洲佐佐木氏世事福井藩考諱長恭鰐淵氏先生天保元年九月三日生弱冠出仕受藩主松平
春嶽公知遇嘉永六年列大番組尋奉命出江戸修砲術安政元年米艦入于相州浦賀物情恟恟徳川幕府命春
嶽公出兵守品川御殿山以備不虞先生従役任偵察事成依藩命入米艦見ペルリ提督且檢艦内兵器得諳其
精鋭之状四年任製造方頭取専掌銃砲火薬製造事宜文久二年兼掌越前安島浦築港事務元治元年京都堺
町之變先生奉藩命赴京都視察戦況慶憲二年依功進持物頭翌年二月依藩命航米國謁大統領ジョンソン
及将軍グラント呈春嶽公手書遂考査米國軍務視察海陸軍學校軍械火薬製造所造船所要塞砲臺等且購
得野砲小銃等而歸明治元年四月於越前奥山村試演米國砲春嶽公臨見驚歎其威力賜感状賞先生之勞無
幾朝廷癈藩置縣福井藩製造所亦癈明治四年五月先生出東京拜工部省勧工寮十等出仕是鳥先生従事勧
業之初矣五年三月拜墺國博覧会御用掛累進勸工寮八等出仕三等上師兼博覧会一等書記官此年依官命
聘外國教師二名設四馬力水車及機械製絲場于工部省内招募女工創辨製絲業是爲我邦機械製絲業之嚆
矢矣六年一月進勧工寮七等出仕兼博覧會一級事務官航欧洲調査墺伊佛瑞諸國之養蠶製絲紡績等事業
七年補勸業寮七等出仕此年官納先生之言於東京内藤新宿試験場内建設蠶室及蠶學試験所開桑園藝桑
創始蠶業試験是爲我國蠶業試験場之嚆矢矣八年一月兼米國フィラデルフィア市博覧會出品物取調
掛七月調査長野縣筑摩郡稲核村奮来所行利用風穴貯蔵蠶種之法十二月補勧業寮六等出仕九年九月参
列伊國ミラン市萬國養蠶公會被選爲名譽副議長旅次視察欧洲各地養蠶製絲實況十一月爲内務省農務
課養蠶掛兼新町紡績所長蓋該紡績所成于先生之規畫経営八年以来屢相地監工到此乃兼所長矣十年一
月任内務少書記官三月爲内務省養蠶試験場長兼新町絹絲紡績所長新設機械製絲場於内藤新宿又設絹
絲紡績場於新町竝備蒸汽機開及紡績機械以開紡績事業九月兼勧農局製造課長十二年四月拜青山御所
養蠶御用掛任宮内少書記官兼四谷勧農試験掛及植物御苑掛六月兼大蔵省御用掛十月辭官専爲宮内省
御用掛奉仕青山御所時 英照皇太后在靑青山御所夙注意于婦功最重養蠶及機織欲爲天下示法乃命先
生建設蠶室及織殿于御所内研究飼育紡績之法先生盡心従事明治十八年致仕不復出而對于蠶絲業革進
発達之熱心不稍衰常應地方長官之聘游説各地東京埼玉群馬宮城静岡滋賀福井愛媛等無所不到有暇則
援筆爲説傾倒蘊蓄啓發誘導蠶絲業者二十餘年如一日也明治十年三月先生敍従六位十一年六月叙勲六
等賜単光旭日章大正五年一月病革朝廷有旨陞叙従五位勲五等賜瑞寶章二十五日易簀享年八十又七越
三日特賜祭資料若干先生之榮亦大矣先生元配加藤氏生二男一女而歿繼室蘆田氏生一男女適人二子皆
成家長子東京帝國大學名誉教授理學博士忠次郎承祀先生夙発明順気育法大圖養蠶之改良實験多年信
者漸加群馬縣多野郡美土里村山田鷲五郎信奉最篤乃爲其普及起見糾合同志明治二十年九月創設順気
社于藤岡町山口正太郎爲社長山口清平柴崎久八爲之副経營順気育研究所募集生徒山田自爲教授長教
授之毎年別開講習會請先生親教習今也傅習順気育法者遍干天下其效果之大可知也山田嗣子亦曰鷲五
郎追慕先生遺徳欲相邑内勝地建碑使後人矜式來徴文乃按状故大要繋之以銘銘曰
壮年錬武 砲術最彰 兼通技巧 製造有方 理本不二 移用蠶桑 養蠶製絲
法立功揚 順気育法 子今有光 唱而不怠 利世元疆 貞珉屹立 美土里郷
先生之徳 山高水長
大正十三年二月
東京帝國大學教授正四位勲二等文學博士 服部 宇之吉撰
東京帝國大學名響教授正三位勲二等理學博士 佐佐木忠次郎書
田澤 清 刻
石原聰一 いしはら そういち |
鐘紡 カネボウ |
1932 昭和7 ~ 2008 平成20 |
佐波郡殖蓮村上植木 石原英治郎の長男 昭和26年群馬県立前橋高等学校卒、 昭和30年慶応義塾大学経済学部 鐘淵紡績入社、昭和48年新町工場長 昭和55年本社人事部長となるが、家業「石英」 を継ぐため退社、石英(株)代表取締役 平成元年カネボウ社長の要請により鐘紡へ再入社 平成6年カネボウ社長に就任、平成8年会長 平成14年群馬県教育委員会委員、後に委員長 |
旧新町紡績所は一年前に世界遺産に登録された「富岡製糸所と絹産業遺産群」の
推薦候補の中にかっては含まれていたが・・・外された経緯がある
反対に伊勢崎市の田島弥平旧宅が入ってきた
旧新町紡績所が国重要文化財に続いて国史跡に指定され、今後は「富岡製糸所と絹産
業遺産群」に追加指定される可能性も出てきた
旧新町紡績所は伊勢崎銘仙に使われた絹紡糸を生産していた
明治10年に操業を開始した新町紡績所(しんまち ぼうせきしょ 高崎市新町2330)
ここで製造した絹紡糸が伊勢崎銘仙に使用された・・・伊勢崎銘仙と世界遺産が繋がる
「富岡製糸場と絹産業遺産群」に追加登録を期待するが、手続き的には新規登録と何ら代わ
りは無いと関係者は言う
(参考)伊勢崎織物業組合事務所・講習所新築寄付者に新町紡績所が記載
(伊勢崎織物同業組合史より要約 P362)
新町紡績所 三越 保右衛門 100円
新町紡績所 役員 鶴見良憲 50円
新町紡績所から絹紡糸を伊勢崎産地で購入した理由である
高崎市新町2437 鐘紡公園
「鐘紡公園」に設置されている碑
「絹糸紡績発祥之地」と書かれている
明治10年10月20日創業
昭和50年4月30日創業閉ず
新町屑糸紡績所の変遷と伊勢崎織物業組合
西 暦 | 和 暦 | 新町屑糸紡績所の変遷 | 伊勢崎織物業組合 |
1877 | 明治10 | 内務省勧業寮 屑糸紡績所が 絹紡糸の操業開始 京都の 丹後ちりめんに用いられた |
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1882 | 明治15 | 新町紡績所と改称 | |
1883 | 明治16 | 絹紡糸に加え紬糸の生産開始 | |
1887 | 明治20 | 三井家に払い下げ 新町三越紡績所となる |
フランス産の絹紡糸を使用する |
1891 | 明治24 | 組合事務所・講習所の新築の募金で 新町紡績所から壱百円を戴いた |
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1902 | 明治35 | 絹糸紡績株式会社(三井系) | |
1909 | 明治42 | 紬糸だけの生産となる | |
1911 | 明治44 | 鐘淵紡績株式会社に譲渡され 鐘紡新町工場となる |
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1921 | 大正10 | 製糸工場を併設 | |
1973 | 昭和48 | 新町工場長に伊勢崎出身の 石原聰一氏就任 |
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1975 | 昭和50 | 絹紡糸の操業停止し 食品工場となる |
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2007 | 平成19 | クラシエホールディングス になり現在にいたる |
*新町紡績所は食品工場のために見学は難しい
問合せは よみがえれ!新町紡績所の会
先行研究者
温井眞一 元 群馬県職員
村田敬一 元 群馬県立前橋工業高等学校校長