「富岡製糸場と絹産業遺産群」が平成26年(2014)6月25日世界遺産に登録された
その構成資産の一つが伊勢崎市島村の田島弥平旧宅
ユネスコの文化遺産は「建造物群」等の不動産が現存することで、
清涼育を実践した「瓦屋根に換気設備を取り付けた近代養蚕農家の原型」の建物である
第二代目 田島弥平(たじま やへい)(邦寧 くにやす)
文政5年(1822)8月15日 ~
明治31年(1898)2月10日 享年76歳
2024年現在 生誕202年 没後126年
「清涼育」(せいりょういく)を確立
明治5年、宮中養蚕の世話方「養蚕教師」
明治5年2月、群馬県蚕種大総代
明治5年3月、蚕書「養蚕新論」を刊行
明治12年、「続養蚕新論」を刊行
明治12年、イタリアへ直接販売
弥平が清涼育のために改築した母屋は現存し、2012年に国の史跡に指定、
また2014年には富岡製糸場と絹産業遺産群の構成資産として世界遺産リストに登録
田島弥平旧宅を南隣の
田島武平旧宅の2階から望む
田島弥平旧宅の南東
1.5kmに渋沢栄一の
生家がある
同じ生活圏・経済圏
で若かりし
頃は共に学んだ
島村には「おきぬさん」伝説がある。おきぬさんは年は二十歳くらいで器量良しの
日雇い養蚕作業員で、彼女が務めた先々の養蚕農家は何故か豊蚕であった
ある年、養蚕の時期が来たのにおきぬさんが
現れなった 村人はきっとお嫁さんに行った
ものと思っていた
おきぬさんが毎年務めていた養蚕農家で仏壇
にお供え物をしたところ白蛇が現れた・・・
村人はおきぬさんが白蛇になったと考え、
以来、おきぬさんの代わりに紙でおきぬさんに
似せた人形を作り豊蚕を祈るようになった
ネズミは養蚕の天敵で蚕を食べてしまう。ヘビは猫と同じくネズミを退治し養蚕農家の
神様である
おきぬさん人形は高さ30cmで3種類の髪型(ハイカラ、丸髷、島田)を一体づつで
三体作る
おきぬさん人形は台所の棚の上に南向きに祀り、御馳走を供え拝みます
翌年の春蚕の掃立て前に利根川で籠洗いする際におきぬさん人形を流した
「おきぬさん」は「おきぬちゃん」として再現
田島武平旧宅で購入
「世界四大文明」は「世界四大河文明」とも呼ばれる
エジプト文明ーナイル川
メソポタミア文明ーティグリス-ユーフラテス川
インダス文明ーインダス川
黄河·長江文明ー黄河·長江
文明はなぜ川の近くで誕生したか?
飲料水、動植物の育成には大量の水が必要とされる
また、物流に水運を利用し大量の物資が運搬可能である
物流に伴って学問も入って来る
河川の氾濫時期を知るための天文・暦法の知識など
島村地域は利根川の度重なる氾濫で穀物等の栽培には適さない
しかし、養蚕の桑には質と量の両面において適所であった
質 カイコノウジバエなどの寄生バエによりきょうそ病を引き起こす
風通しの良い河原の砂地の桑には寄生バエの産卵が少なく良質の
桑が栽培が出来た・・・歩桑(ぶくわ 良質の桑の意味)
量 蚕種業は養蚕農家と違い大量の桑を必要とした
氾濫した利根川の河原に大量の桑の栽培を可能とした・・・養蚕場
島村の蚕種業者は 富裕層・ブルジョア・知識階級・キリスト教の信者
養蚕は農家の副業であるが、蚕種業の経営には多額の資金が必要とされた
蚕種の販売に伴って養蚕方法の指導でパンフレットの作成を行った
現金販売では無いので、日記・帳簿等を記載した 読み、書き、ソロバンが出来た
島村には私塾があった
明治初期にビジネスで横浜へ出向きキリスト教と接し、海外へ赴いた時にも
キリスト教の文化に感銘し島村には信者が増加している
田島弥兵衛 たじま やへい |
1796~1866 (寛政8~慶応2) |
初代田島弥平(定儀)、長男の第二代目田島弥平 と「清涼育」を説く、養蚕長者 建物を「遠山近水村舎(えんざんきんすい そんしゃ)」と号した |
田島弥平 たじま やへい |
1822~1898 (文政5~明治31) |
第二代目田島弥平(邦寧くにやす) 「清涼育」(せいりょういく)を確立 明治5年、宮中養蚕の世話方「養蚕教師」 明治5年2月、群馬県蚕種大総代 明治5年3月、蚕書「養蚕新論」を刊行 明治12年、「続養蚕新論」を刊行 明治12年、イタリアへ直接販売 弥平が清涼育のために改築した母屋は現存し 2012年に国の史跡に指定、また2014年には 富岡製糸場と絹産業遺産群の構成資産として 世界遺産リストに登録 |
田島武平 たじま ぶへい |
1833~1910 (天保4~明治43) |
田島弥兵衛の本家、屋号を桑麻館(そうまかん) 明治4年、宮中養蚕の 世話方 明治5年2月、群馬県蚕種大総代 明治5年2月、渋沢栄一の勧めと指導で 「島村勧業会社」設立し社長に就任 明治13年、蚕種直輸出のためイタリアへ渡る この間 名主、郷長、県会議員、村長等を務めた |
田島弥九郎 たじま やくろう |
1836~1895 (天保7~明治28) |
島村の松波家で生まれ、田島善兵衛に預けられ 田島姓となる 剣が立ち田島善兵衛家の用心棒 を務め、明治4年と明治6年の宮中養蚕では奉仕 者の送迎人 明治8年島村郵便局初代所長 |
田島善平 たじま ぜんべい |
1842~1929 (天保13~昭和4) |
島村の田島善兵衛(第13代目)の長男、名を 信惇(のぶあつ)、渡航時は信(のぶ)と呼称 明治12年、イタリアへ直接販売 明治25年村長、明治30年県会議員、副議長 |
田島 民 たじま たみ |
1851~1899 (嘉永4~明治32) |
第二代目田島弥平の娘、宮崎有敬(ゆうけい) の兄弟? 宮崎有矩(ありのり)を婿養子 明治5年に宮中養蚕の奉仕者として 宮中吹上御所に参上し宮中養蚕日記を書き記す |
田島邦子 たじま くにこ |
1868~? (明治元年~? |
田島民の娘 |
田島群次郎 たじま ぐんじろう |
1890~1975 (明治23~昭和50) |
第三代目群次郎を襲名、田島弥太郎は長男 明治43年、高山社蚕業学校を卒業 昭和23年、県蚕種協会長 文芸を好み漢文詩の権威 |
高良とみ こうら とみ) |
1896~1993 (明治29~平成5) |
戦後初の女性議員 |
田島弥太郎 たじま やたろう |
1913~2009 (大正2~平成21) |
田島群次郎の長男、東京高等蚕糸、九州帝大卒 蚕の遺伝学の研究、日本絹の里初代館長 富岡製糸場世界遺産登録推進委員会会長 |
田島健一 たじま けんいち |
1929~2014 (昭和4~平成26) |
第六代目田島弥平旧宅当主 平成22年に国史跡指定願い提出 |
高良留美子 こうら るみこ |
1932~現在 (昭和7~現在) |
田島民が母方の曾祖母、高良とみの娘 詩人 、宮中養蚕日記の著者 |
田島英雄 たじま ひでお |
1961~現在 (昭和36~現在) |
第七代目田島弥平旧宅当主 |
田島信孝 たじま のぶたか |
1947~現在 (昭和22~現在) |
田島武平旧宅現当主 旧宅の2階桑麻館蚕室を公開し解説している |
五代目 田島武兵衛 | (天保14年分家) | ||
↓ | ↘ | ||
六代目 田島武平 | 田島弥兵衛 | ||
↓ | (田島弥平の次弟) | ||
田島弥平 → | 田島群次郎 | ||
↓ | ↓ | ||
↙ 田島有矩=民 | 二代目 田島群次郎 | ||
田島邦子 | ↓ | ↓ | |
↓ | 田島定寧 | 三代目 田島群次郎 | |
高良とみ | ↓ | ↓ | |
↓ | 田島邦太郎 | 田島弥太郎 | |
高良留美子 | ↓ | ||
田島健一 |
中ノ家 | 尾高家 | 東ノ家 | ||||
元助=えい | ー | 尾高勝五郎=やえ | ー | 文左衛門 | ー | 宗助 |
| | | | | | 島村の田島家 | |||
渋沢栄一=千代 | ー | 尾高惇忠 | 渋沢喜作=よし | ー | 田島武平=しげ | |
| | ||||||
尾高ゆう |
渋沢栄一(しぶさわ えいいち) 1840~1931 (天保11~昭和6) |
日本資本主義の父と称する |
尾高淳忠(おだか あつただ・ じゅんちゅう) 1830~1901 (天保元~明治34) |
渋沢栄一の義従兄で、且つ妹の千代が渋沢栄一の妻である 尾高塾を開き渋沢栄一に論語を教えた 富岡製糸場の初代所長を務めるが、当時禁止されている秋蚕 飼育を奨励し所長を解任される |
渋沢喜作(しぶさわ きさく) 1838~1912 (天保9~大正元) |
渋沢栄一の従兄、名は成一郎(せいいちろう)明治以降は 喜作と改名 |
尾高ゆう(おだか ゆう) 1860~1923 (万延元~大正12) |
尾高惇忠の娘 官営富岡製糸場の第1号の伝習工女 父の惇忠が工場長を務める官営富岡製糸場の操業にあたり 伝習工女に応募 それに従い多くの子女が志願 |