伊勢崎銘仙アーカイブス

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 田島弥平家譜

 「富岡製糸場と絹産業遺産群」が平成26年(2014)6月25日世界遺産に登録された
  その構成資産の一つが伊勢崎市島村の田島弥平旧宅
  ユネスコの文化遺産は「建造物群」等の不動産が現存することで、
  清涼育を実践した「瓦屋根に換気設備を取り付けた近代養蚕農家の原型」の建物である





   田島弥平旧宅を南隣の
   田島武平旧宅の2階から望む













 田島弥平旧宅の南東
 1.5kmに渋沢栄一の
 生家がある
 同じ生活圏・経済圏
 で若かりし
 頃は共に学んだ









「おきぬさん」伝説

  島村には「おきぬさん」伝説がある。
 お絹さんは年は二十歳くらいで器量良しの日雇い養蚕作業
 員で、彼女が務めた先々の養蚕農家は何故か豊蚕であった
  ある年、養蚕の時期が来たのにお絹さんが現れなった
 村人はきっとお嫁さんに行ったものと思っていた
 お絹さんが毎年務めていた養蚕農家で仏壇にお供え物をし
 たところ白蛇が現れた・・・
 村人はお絹さんが白蛇になったと考え、以来、お絹さんの
 代わりに紙でお絹さんに似せた人形を作り豊蚕を祈るよう
 になった
  ネズミは養蚕の天敵で蚕を食べてしまう。ヘビは猫と同
 じくネズミを退治し養蚕農家の神様である






 「おきぬさん」は「おきぬちゃん」として再現
  田島武平旧宅で購入


 島村と利根川

「世界四大文明」は「世界四大河文明」とも呼ばれる
 エジプト文明ーナイル川
 メソポタミア文明ーティグリス-ユーフラテス川
 インダス文明ーインダス川
 黄河·長江文明ー黄河·長江

 文明はなぜ川の近くで誕生したか?
 飲料水、動植物の育成には大量の水が必要とされる
 また、物流に水運を利用し大量の物資が運搬可能である
 物流に伴って学問も入って来る
 河川の氾濫時期を知るための天文・暦法の知識など


 島村地域は利根川の度重なる氾濫で穀物等の栽培には適さない
 しかし、養蚕の桑には質と量の両面において適所であった
  質   カイコノウジバエなどの寄生バエによりきょうそ病を引き起こす
     風通しの良い河原の砂地の桑には寄生バエの産卵が少なく良質の
     桑が栽培が出来た・・・歩桑(ぶくわ 良質の桑の意味)
  量   蚕種業は養蚕農家と違い大量の桑を必要とした
     氾濫した利根川の河原に大量の桑の栽培を可能とした・・・養蚕場

 島村の蚕種業者は 富裕層・ブルジョア・知識階級・キリスト教の信者
  養蚕は農家の副業であるが、蚕種業の経営には多額の資金が必要とされた
  蚕種の販売に伴って養蚕方法の指導でパンフレットの作成を行った
  現金販売では無いので、日記・帳簿等を記載した 読み、書き、ソロバンが出来た
  島村には私塾があった
  明治初期にビジネスで横浜へ出向きキリスト教と接し、海外へ赴いた時にも
  キリスト教の文化に感銘し島村には信者が増加している
 



 島村に関係する人物を紹介します

 田島弥兵衛
たじま やへい
 1796~1866
(寛政8~慶応2)
 初代田島弥平(定儀)、長男の第二代目田島弥平
と「清涼育」を説く、養蚕長者
建物を「遠山近水村舎(えんざんきんすい
そんしゃ)」と号した
 田島弥平
たじま やへい
1822~1898
(文政5~明治31) 
 第二代目田島弥平(邦寧くにやす)
「清涼育」(せいりょういく)を確立
明治5年、宮中養蚕の世話方「養蚕教師」
明治5年2月、群馬県蚕種大総代
明治5年3月、蚕書「養蚕新論」を刊行
明治12年、「続養蚕新論」を刊行
明治12年、イタリアへ直接販売
弥平が清涼育のために改築した母屋は現存し
2012年に国の史跡に指定、また2014年には
富岡製糸場と絹産業遺産群の構成資産として
世界遺産リストに登録
 田島武平
たじま ぶへい
 1833~1910
(天保4~明治43)
田島弥兵衛の本家、屋号を桑麻館(そうまかん)
明治4年、宮中養蚕の 世話方
明治5年2月、群馬県蚕種大総代
明治5年2月、渋沢栄一の勧めと指導で
「島村勧業会社」設立し社長に就任
明治13年、蚕種直輸出のためイタリアへ渡る
この間 名主、郷長、県会議員、村長等を務めた
 田島弥九郎
たじま やくろう
 1836~1895
(天保7~明治28)
 島村の松波家で生まれ、田島善兵衛に預けられ
田島姓となる 剣が立ち田島善兵衛家の用心棒
を務め、明治4年と明治6年の宮中養蚕では奉仕
者の送迎人 明治8年島村郵便局初代所長
 田島善平
たじま ぜんべい
 1842~1929
(天保13~昭和4)
 島村の田島善兵衛(第13代目)の長男、名を
信惇(のぶあつ)、渡航時は信(のぶ)と呼称
明治12年、イタリアへ直接販売
明治25年村長、明治30年県会議員、副議長
 田島 民
たじま たみ
 1851~1899
(嘉永4~明治32)
 第二代目田島弥平の娘、宮崎有敬(ゆうけい)
の兄弟?  宮崎有矩(ありのり)を婿養子
明治5年に宮中養蚕の奉仕者として
宮中吹上御所に参上し宮中養蚕日記を書き記す
 田島邦子
たじま くにこ
 1868~?
(明治元年~?
 田島民の娘
 田島群次郎
たじま ぐんじろう
 1890~1975
(明治23~昭和50)
 第三代目群次郎を襲名、田島弥太郎は長男
明治43年、高山社蚕業学校を卒業
昭和23年、県蚕種協会長
文芸を好み漢文詩の権威
 高良とみ
こうら とみ)
 1896~1993
(明治29~平成5)
 戦後初の女性議員
 田島弥太郎
たじま やたろう
 1913~2009
(大正2~平成21)
 田島群次郎の長男、東京高等蚕糸、九州帝大卒
蚕の遺伝学の研究、日本絹の里初代館長
富岡製糸場世界遺産登録推進委員会会長
 田島健一
たじま けんいち
 1929~2014
(昭和4~平成26)
 第六代目田島弥平旧宅当主
平成22年に国史跡指定願い提出
 高良留美子
こうら るみこ
 1932~現在
(昭和7~現在)
田島民が母方の曾祖母、高良とみの娘
 詩人 、宮中養蚕日記の著者
 田島英雄
たじま ひでお
 1961~現在
(昭和36~現在)
 第七代目田島弥平旧宅当主
 田島信孝
たじま のぶたか
 1947~現在
(昭和22~現在)
 田島武平旧宅現当主
 旧宅の2階桑麻館蚕室を公開し解説している





 島村・田島家の家譜



五代目 田島武兵衛   (天保14年分家)   
↓   ↘    
六代目 田島武平    田島弥兵衛   
    ↓  (田島弥平の次弟) 
     田島弥平  → 田島群次郎 
    ↓  ↓ 
    ↙ 田島有矩=民    二代目 田島群次郎 
  田島邦子  ↓ 
  ↓  田島定寧  三代目 田島群次郎 
  高良とみ  ↓  ↓ 
  ↓  田島邦太郎  田島弥太郎 
  高良留美子  ↓   
  田島健一  





 田島武平君墓表   島村田島家墓域 

蚕之為物。躯小功大。黼黻之貴。錦繍之美。皆其所出。而其質之良否一帰于飼養繰繹之巧拙。蚕糸之業亦大矣哉。上毛古来長于蚕糸。其名洽布於海之内外。而尽瘁其業報国家者不乏其人。田島君武平其錚錚者也。君歿之三年。従兄渋沢喜作擕其状。来請表於其墓。盖以喜作妻君之妹也。君諱保寿。通称武平。以天保四年癸巳生于上野国佐位郡島村。田島家五世武兵衛保信長子也。母栗原氏。君幼失怙恃。為王父母所鞠育。稍長継家。専尽心養蚕学。奥之信夫伊達地方飼養法。刻苦精研大有所得焉。明治二年己巳為名主。尋為郷長。見許佩刀。三年庚午為蚕種製造人大総代。其年創立島村勧業会社。奨励蚕種製造法。四年辛未 后宮始設蚕室於吹上御苑。君奉命供技師及工男女数名。成蹟甚宜。八年乙亥為蚕種製造組合頭取。九年丙子踏査野州鬼怒川思川両岸。開桑田起蚕室。産出年加焉。其年為群馬県養蚕世話掛重立取締。十一年戊寅為群馬県勧業世話掛兼農事通信委員。十二年己卯為群馬県島村戸長。尋挙勧業会社副頭取。専努養蚕十三年。庚辰航欧洲。為輸出蚕種之計。翌年赴北海道試蚕種之業。十八年乙酉西郷農商務卿賞其夙改善蚕種同業浴恵功労甚大。賜金若干。尋挙群馬県会議員。四十一年戊申冬罹疾荏苒不愈。四十三年庚戌六月十六日歿于家。享年七十有八。仏諡曰達観院畯毅精徹保寿居士。妻福田氏。挙五男六女。長子格平分産別居。次渾一立平九一賛一皆夭。長女舒為叔父林平所養。次実夭。次道次仲夭。次稲栄皆分産。養姪栗原文八郎以道配之。嗣家是為今代武平。君以蚕桑立志大興公利。至使天下蚕業家知上毛島村有其人。可謂能達観内外発揚郷国之精粋者矣。
  大正元年壬子十一月下澣
                       従三位勲一等男爵 渋沢栄一撰并書



 君歿之三年。従兄渋沢喜作擕其状。来請表於其墓。盖以喜作妻君之妹也。

 田島武平が没して三年、(渋沢栄一の)従兄の渋沢喜作(成一郎)がその状を携えて来た
 その墓に表 (墓表:墓石などに死者の氏名・死亡年月日・業績などを記した文)を請う
 蓋し(けだし たしかに)喜作の妻君(よし)は君の妹(しげ)なるを以てなり




中ノ家     尾高家       東ノ家
 元助=えい  ー 尾高勝五郎=やえ   ー 文左衛門   ー  宗助
 |    |    |   島村の田島家 
 渋沢栄一=千代 ー   尾高惇忠    渋沢喜作=よし  田島武平=しげ
     |        
     尾高ゆう        



 
渋沢栄一(しぶさわ えいいち)
 1840~1931
(天保11~昭和6)
 日本資本主義の父と称する
 尾高淳忠(おだか あつただ・
      じゅんちゅう)
1830~1901
(天保元~明治34)
 渋沢栄一の義従兄で、且つ妹の千代が渋沢栄一の妻である
尾高塾を開き渋沢栄一に論語を教えた
富岡製糸場の初代所長を務めるが、当時禁止されている秋蚕
飼育を奨励し所長を解任される
 渋沢喜作(しぶさわ きさく)
1838~1912
(天保9~大正元)
 渋沢栄一の従兄、名は成一郎(せいいちろう)明治以降は
喜作と改名
 尾高ゆう(おだか ゆう)
1860~1923
(万延元~大正12)
尾高惇忠の娘 官営富岡製糸場の第1号の伝習工女
父の惇忠が工場長を務める官営富岡製糸場の操業にあたり
伝習工女に応募 それに従い多くの子女が志願










 渋沢栄一著 「出がら繭の記」


 上州島村なる田島武平ぬし、一日わが許を訪れ、携え来れる繭の白きと青白なるとの二種を示されて、こは明治の御代のはじめつかた吹上の御苑内に御養蚕所を設けられける折、わが祖父なる武平はかしこき御あたりの仰せごとうけたまはり、蚕飼いのわざにたけたる四人の女子たちを随へて其処に参りつかまつりけることのさぶらひけるが、後の思い出ぐさにとて申し受けて、家の宝として秘めおきつる出殻繭なり。
 其折、時の皇后の宮には蚕子掃立のはじめよりしばしば御蚕室に成らせられ、精しく飼育のわざを見そなはせられ、宮人たちに仰せて其業を習はしめ給ひけりとぞ。しかのみならず明治の帝には八度までも其処に御幸ましまし、蚕子飼育の始め終りを叡覧ましましけるよし、祖父の日記によりて承り知るもいといとかしこきことの極みにこそあれ。
 其時に祖父を薦めたまひしは即ち大人にして、いと深きゆかりあれば、後の世の記念にいかで其ことよしを書きしるしてよといはる、これによりて思ひかへせば今より五十九年のむかし、明治四年の頃なりけむ。
 皇太后の宮 皇后の宮 深く蚕糸の道に御心をそゝがせられ、親しく蚕飼いのわざをみそなはし給はむとて、当時大蔵省に出仕なしたりけるおのれ仰せごとうけたまはり、吹上の御苑の内に御養蚕所建設の場所を選り定め奉りたることのありき、養蚕はおのれが生家の業にしあれば他の司人たちにはまさりて聊か知れることありければ、その御設備につきて僅に奉仕せりとはいへ、自ら宮人たちに教へて蚕飼のわざ仕うまつらむほどには覚束なく、且大蔵省出仕に暇もなかりければ縁者にして其業にいたり深き田島武平ぬしをおのれが代りにすゝめ申せしが、武平ぬしは寝食をも忘れてつとめられけるにより、かしこきあたりにおかせられても御満足に思召さるゝよし承りて深く喜びたりき、その御養蚕所は明治六年宮城炎上のことありける時にやめられて後、赤坂なる仮皇居の御苑内にさらに御養蚕所を設けしめられ、年々蚕飼のわざ見そなはし給ひけりとぞ承る。明治六年の夏の初め、時の
  皇太后の宮 皇后の宮 御同列にて上州富岡なる製糸場に行啓ましましける時
  皇后の宮より

 糸車とくもめくりて大御代の
   富をたすくる道ひらけつゝ

 と申す御歌を賜はらせけるが
 大正の后の宮にも、太后の宮の厚き御心をかしこみつがせ給ひけむ、いまだ
 東宮の妃にてましましける頃

 かきりなき御国の富やこもるらむ
   しつかかふこの繭のうちにも

 とよませ給ひけり、国母と仰がれさせ給ひて後、大正三年宮城の御苑内なる紅葉山にいと広く御養蚕所をしつらへさせられ、春蚕は更にもいはず夏蚕、秋蚕をもなさしめ給ひ折々は御親ら桑つみ、こがひのわざせさせ給ひて、年々あまたの糸とり、絹織らしめたまひきとぞうけたまはる
 先つ年、蚕糸の業にあづかれる人々に仰せて歌どもめさせられける折、おのれも

 かしこしや玉の御けしの御袖にも
   こかひの桑の露をかけます

 とよみて奉りけり、後にうけたまはれば其折
 皇后の宮には

 うつくしみそたてし桑子繭となり
   糸となるこそうれしかりけれ

 たなすゑのみつきのためし引く糸の
   長き世かけてはけめとそ思ふ

 の御歌二首を詠ぜさせ給ひ、各宮の妃の宮を始め奉りあまたの司人たちより歌奉らしめ給ひて民間の人々よりたてまつれる色紙短冊どもとを貼り交ぜとして一双の御屏風を作らしめられ、常に御傍近くおかせ給ふと承るこそいともかしこけれ
 代々の 后の宮かた つぎつぎに御躬を先にして蚕糸のわざをすゝめさせ給ひければ、御国人誰か奮ひ励まざらむ、この業は年と共に栄え行きて、外国におくり出す量いとおびたゞしく、今は貿易品の随一とぞなれりける、げにも御歌に宣へるごと今の世の富も栄も其もとは、明治初年になれりけるこの幾粒の繭の中より出で来つるものとこそ申し得べけれ、あはれ前には
 明治の帝を始め奉り
 英照皇太后の宮
 昭憲皇太后の宮 後には今の 皇太后の宮が民のなりはひと御国の富とを思召し給ひて蚕糸の業をはげまし給ひける御ことの畏さは申し奉らむも今更ながら、御養蚕所設立の初に仕うまつりける故武平ぬしの心つくしも深く偲ばれて、そのかみの思出に堪へず、請はるゝまゝに筆をとりてたえて久しき昔の糸すぢをくりかへすになむ
 年を経てこの桑繭を見るからに
   むかしの人のいさをゝそ思ふ

 昭和四年十一月
   九十翁 渋沢栄一識




 参考引用資料

  田島弥平関係
   境町人物伝  しの木弘明著 境町地方史研究会 昭和50年発行
   群馬県人名大辞典 上毛新聞社 昭和57年発行
   続境町人物伝 しの木弘明著 境町地方史研究会 平成6年発行
   宮中養蚕日記 田島 民著 高良留美子編 ドメス出版 平成21年発行
   上州の重要民家を訪ねる 東毛編 群馬県文化財研究会編 あさを社 平成21年発行
   田島弥平旧宅調査報告書 伊勢崎市 平成24年発行
   伊勢崎境の漢文碑 濱口富士雄監修 東豊書店 平成24年発行
   いのちの桜 ー田島弥平物語ー 関口扶沙恵著 自費出版 平成28年発行
   群馬県企画部世界遺産課作成 「富岡製糸場と絹産業遺産群」パンプレット
   伊勢崎市企画部企画調整課作成 「田島弥平旧宅」パンフレット

  渋沢栄一関係
   雄気堂々・上  城山三郎著 新潮社 昭和51年発行
   雄気堂々・下  城山三郎著 新潮社 昭和51年発行
   渋沢家三代   佐野眞一著 文藝春秋 平成10年発行
   渋沢栄一 日本を創った実業人 東京商工会議所編 講談社 平成20年発行
   蚕にみる明治維新 渋沢栄一と養蚕教師 鈴木芳行著 吉川弘文館 平成23年発行
   渋沢栄一を知る辞典 (公財)渋沢栄一記念財団編 東京堂出版 平成24年発行
   深谷市教育委員会作成の渋沢栄一に関する各種パンフレット