伊勢崎銘仙アーカイブス

TOP  topページへもどる

 武 孫平物語

 武家は代々地域の通運(貨物輸送)を担ってきた
 武家は古くは安堀村より1660年頃河岸(現 三光町)に引越してきた
 名前は代々襲名で初代孫右衛門は寛永15年(1638)頃の出生と思われ、船問屋を営業
 明治3年に旧官名禁止令を政府は発布し右衛門の使用が禁止となり孫平と名乗る
 武家では代々嗣子(しし 家督を相続する子)の男子名に宜(よし)を上に付け、他は宜
 を下に付けた





 伊勢崎河岸の石灯籠
 いせさきかしのいしどうろう
 所在地 伊勢崎市三光町13-13 武家入口
 文政2年(1819)に第7代武孫右衛門
 (武 宜長 よしなが)等が建立し
 昭和47年(1972)現在地に移転
 伊勢崎市指定重要文化財
 指定日 昭和42年(1967)2月15日











 第10代 武 宜昭(たけ よしあき)





武 宜昭(たけ よしあき)伊勢崎出身の通運業、政治家
安政6年(1859)3月9日~明治44年(1911)9月26日享年53歳
2024年現在 生誕165年 没後113年









 


 華蔵寺公園に建立されている
 武 孫平(第10代 武 宜昭 よしあき)
 彰徳碑(しょうとくひ)

 場所 遊園地東 バックは大観覧車ひまわり
  建立日 大正7年9月 七年忌
  再建日 昭和30年 春

 撰文 中島徳蔵
   東洋大学教授 、後に学長を歴任
   明治19年郡立佐位那波高等小学校設置
   校長に中島徳蔵が就任明治24年4月至る   当時町長の武孫平とは旧知の間柄



























 武 孫平 彰徳碑 案内板 (第10代 武 宜昭 よしあき)
 武 孫平(たけ まごへい) 行政・実業家
 安政6年(1859)~明治44年(1911)53歳

  武孫平は伊勢崎河岸町(かしまち 現 三光町)船問屋 初代 孫平の長男。幼少から、
 郷学責善堂の設楽天僕について学び、父親を早く失ったため18歳にして家業を継ぎ、
 23歳の若さで伊勢崎町戸長(こちょう)、続いて明治22年(1889)町村制のもと
 31歳で初代町長に就任した。まず両毛線伊勢崎駅を市街地の近くに設置、教育に、産業に、
 治水事業に、そして交通に、と広い分野にわたって ”質実と勤勉”をモットーに、生来の
 先見性と情熱を傾けて町村自治の基礎をづくりと郷土産業の発展に力を尽くした。
  明治28年(1895)町長を退いてからは、家業の運送店経営に励むかたわら、町会
 議員として地域振興に多大な貢献をされた。 (墓所・曲輪町 同聚院)



  武 宜昭年譜
 西暦  年齢  出来事
 1859
安政6年
  1  3月9日 第9代孫平の子として誕生 幼名を覚太郎
 1871
明治4年
 13  郷学 責善堂の肝煎見習(きもいりみならい 教員補佐)
 1876
明治9年
 18  1月11日 父 第9代孫平逝去
武 宜昭 家業を継ぎ、第10代孫平を襲名
 1882
明治15年
 24  8月19日 長男 武 宜教(よしのり)誕生
 1884
明治17年
 26  10月22日 武孫平 戸長、郡衙(ぐんが)に召喚される
高崎線が開通し水上(利根川水系)ルートは徐々に衰退
 1889
明治22年
 31  5月 市制・町村制の施行により武孫平 初代の伊勢崎町の
町長に当選
11月20日 両毛線開通し伊勢崎駅開業
武孫運送店を伊勢崎駅前に開業、中牛馬(ちゅうぎゅうば)
 1893
明治26年
 35  伊勢崎織物業組合が分裂、武孫平の斡旋が成功
 1894
明治27年
 36  12月15日 自治功労で藍綬褒章を賜る
 1895
明治28年
 37  4月 武孫平初代伊勢崎町町長退任
     
     群馬商業銀行 取締役
     
     
 1911
明治44年
 53  9月26日 逝去





 第11代 武 宜教(たけ よしのり)




武 宜教(たけ よしのり) 伊勢崎市出身の通運(貨物輸送)事業家、
            政治家
 明治15年(1882)8月19日~
 昭和29年(1954)10月5日 享年72歳
 2024年現在 生誕142年 没後70年






















 武 宜教年譜
 西暦  年齢  出来事
 1882
明治15年
 1  8月19日 佐位郡伊勢崎町河岸町五番地
父 武宜昭、母 (中澤)はな に誕生
 1901
明治34年
20   3月 群馬県前橋中学校卒業
 1906
明治39年
25   3月 第一高等学校(現 東京大学教育学部)卒業
 1909
明治42年
28   12月 高崎歩兵第15連隊入隊
 1910
明治43年
29   11月 陸軍歩兵軍曹
 1911
明治44年
30   9月26日 父 武宜昭逝去 53歳 武孫運送店を承継し
第11代武孫平を襲名

10月 東京帝国大学法科大学(現 東京大学法学部)中退
 1912
明治45年
31   3月10日 次男 第12代 武 宜聡(よしふさ)誕生
(長男 宜勝 明治44年に逝去)
1914
大正3年
33   8月 陸軍歩兵曹長
1921
大正10年
40   10月 鉄道50周年記念式典で鉄道功労者として
  鉄道大臣より表彰
1922
大正11年
41   12月 大阪への伊勢崎銘仙の輸送についての申合せ
  武孫運送店の貨車急行貸切扱いとする(伊勢崎買継商)
1924
大正13年
43   7月 通称「六間道路」完成
 1925
大正14年
44   3月 伊勢崎町 町会議員に当選(四選)
1926
大正15年
45   11月 伊勢崎町役場 鉄筋コンクリート造2階建完成
 (現 本町4丁目)
1927
 昭和2年
46   5月 伊勢崎合同運送株式会社 社長
  場所 紺屋町(伊勢崎駅前)
1940
昭和15年
 59  9月13日 伊勢崎市制施行
10月 伊勢崎市会議員選挙で当選
武孫平を市長に推薦する案が浮上したが、板垣源四郎が当選
 1943
昭和18年
 62 3月  両毛通運株式会社 社長(逝去に至るまで)
 1946
昭和21年
 65 2月 日本通運株式会社 監事(後に監査役、顧問を歴任) 
 1950
昭和25年
 69 2月 全国通運協会副会長
4月 関東地方通運協会 会長
10月21日 妻 まさ 逝去67歳
 1954
昭和29年
 72  10月5日 逝去
 1984
昭和59年
 ー  2月1日 伊勢崎駅 荷物取扱業務廃止
 2004
平成16年
 ー  4月1日 両毛線 全線で貨物列車の運行が廃止



 故武孫平君彰徳碑記(註武孫平翁)
                引用:関東地方通運史(昭和39年発行)P344~346
顕貴希ふへく富栄求むへし然りと雖人の大を成す所以のものは蓋し自ら別に存するなるへし此れ先哲が人爵を軽んし天爵を重せる所以にして亦以て武孫平君の真価値を測る標準となすへきなり君譚は宜昭幼字を覚太郎と曰ひ安政六年三月九日を以て伊勢崎町の名門に生れたり天資駆厚聡明不幸にして早く慈父を喪ひ後賢母の助に頼りて能く世体人情に通し弱冠にして優に人に長たる器宇を養ふ明治四年十三歳にして責善堂肝煎見習となりしより二十三歳にして戸長となり三十七歳町長を辞するに至るまで多年郷党の為に心府を言屑し功業美績世に希に観る所なりき是に於てか藍綬褒章の恩賜あり幾多公私の名誉表彰あり公吏として市民として光栄洵に大なりと謂ふべし然れども君の君たる所以のものは固より其の人にありて存せり温乎たる風貌朗朗たる音吐壮重なる威儀謹巌たる態度公正の主義穏健の常識に加ふるに周到の用意を以てし事大小となく熱誠之に当らさるなく由来熱誠は同情を生し同情は理会を生し理会は工夫を生す故を以て君か万般の処理施設は従容不迫の間に成り事に遇ひて担然常に余裕あり此れ君が少壮にして能く老成の功を収めし所以なり当時我邦憲政の準備と試験との時期に際し君の手を藉るへきもの独り町政のみに止まらす乃ち君は他の先進と共に諸種の団体を設け綿密の計画を立て地方人士を指導啓発に努め広瀬桃木両堰水利土功会委員長として佐位郡佐波郡私立教育会長として佐波郡会議長として伊勢崎実業協会長として繭糸織物市場取締として群馬商業銀行取締役として臨機重要の時務を果し又太田新道の開通に尽力し織物同業組合の紛議を和解する等萄も地方の公共事業にして陰に陽に君か徳望と斡旋とに待たさるものなしと謂ふも亦過言にあらさるへし大れ労功の伴はさるは奉行の常なり高く小名小利を超越して真に公事に忠実なる者にあらされは安子能く此の如くなるを得んやかくて自治の町政一且其の緒に就くに及ひ君はやがて其の地位を後進に譲り敢て公事を閑却せしにあらされとも主として身を運送業の経営に委ね昨の公職に廣りし所を以て今の営利の事に従う事異なりと雖心は相同し惟れ信惟れ義質実勤勉益之か改善発達を謀り幾もなくして一個成功の実業家となりしか四十四年九月二十六日俄に病を獲濫焉として逝きぬ実に五十三歳なり顧ふに君か年寿は決して長しと謂うへがらす然れども奉公致富君に於ては雙全を得たり蓋し君は福徳円満の君子人にして終始至誠を以てI貫せるが故に其の胸中常に無用の煩悶なく快活にして能く行楽せり特に其の家庭は一族頗る多しと雖豚ち和気蕩蕭として四時春風駱蕩の観あり君は其の裏にありて談笑眠食恰恰如たり又四方の遊覧旅行を怠らす優游自適愉愉如たり嗚呼六爵必すしも其の六を軽重するに足らす公明正大随処最善を尽したるて平民武孫平君の一生壹に偉ならすや古語に曰く至貴は爵を待たすと君之に近しと謂ふへく其の天爵は長に景仰すへきなり人格の光輝死後に至りて益赫赫たるも宜なるかな君か逝きしより今茲方に七年に満つ郷人百議し碑を樹て遺徳を顕彰し以て無窮に垂れんと欲し余か文を徴す余其の挙の風教に稗補する所斟からさるを想ひ且生前辱知の故を以て敢て辞せすして碑記を作ること此の卸し時に大正七年九月上院なり

  永平寺貫首明鑑道機禅師日置黙仙題 東洋大学教授中島徳蔵撰
    茨城県立竜崎中学校長従六位勲六等板垣源次郎書

  現在の彰徳碑は再建したもの
   昭和三十年春
    大矢大三 謹書 富士土建工業株式会社 再建
    新田郡綿打村 石工 栗田撰泉


 
  故武氏除幕式  (上毛及上毛人 第36号 大正8年 1919 11月25日より)
  佐波郡伊勢崎町故武孫平氏の功労碑除幕式は秋晴の本月5日午前十一時満山錦に彩どら
 れたる華蔵寺公園に於て挙行せられたり、定刻 安間(やすま)郡長各県郡議長及有志の
 来賓遺族高等小学生約三百名参列するや建碑副委員長天田仙蔵氏の開式の辞に始まり
 大野委員長は建碑の経過につき詳細報告し嗣子武孫平氏によりて紅白の幕は除かれたる後、
 来賓数氏の祝辞遺族及発起人総代副委員長佐藤三郎氏の謝辞ありて式を閉ぢ午後一時より
 は予定の如く同聚院に曹洞宗管長 日置黙仙禅師、同地出身老教育家中島徳蔵氏、
 カルカッタ大学名誉教授山下天川氏の追弔講演会開催されたり。



 出典・参考図書

   関東地方通運史 松田実著 出版者 関東通運協会 昭和39年(1964)

   上毛及上毛人 第36号 発行所 上毛郷土史研究会 大正8年 (1919)




 郵政博物館 研究紀要 第8号 (2017年3月)
  近世における飛脚関係の金石史料 一常夜灯、道標、墓誌を中心にー


    孝女茂世之碑

 此方之玉梓乎彼処尓通波世彼処之重荷乎此方尓
 運氏人之労尓代留乎飛脚止云比其飛脚余利文尓
 母物乎母預氐致湏者乎宰領止云米理島屋某之宰
 領尓徳江栄清止云人有利天保三年〇二月其國尓
 上野尓往止桶川駅尓到祁留尓許多之金乎収太留
 荷一箇乎被奪大利祁禮婆公尓毛訴申氐岩根
 凹氐馬爪之至限乎令探索給閇留尓行方更知尓
 由無利祁禮婆同四年正月余利二月尓係氐食乎断
 命尓換氐高雄山尓憫白世抒毛其験無乎其女茂世
 伊父乃志之不達乎深憫氏日毎尓身潔氐浅間神尓
 乞祈都留尓将其詮不有那毛有祁禮婆其五月九日
 尓自身罷尓伎茲年廿二也其主尓忠那流其親尓孝
 那流其心者可賞乎父毛子毛其志乎得邪留那父可
 悩伎事那利祁流安政二年五月九日穂積重胤此乎
 誌傅流尓那母 大竹培書并篆額  宮亀年鐫
     京都和糸絹問屋中
     島屋佐右衛門組中 建
                       









   徳大寺正二位大納言公純卿御詠

   よしや 身はくたけ
    行ともよろつ代□(のヵ)
     道の枝おりとなりに
           けるかな











 (読み、山本廣信氏による)
 此方の玉梓(手紙)を彼処に通はせ、彼処の重荷を此方に運びて、人の
労に代わるを飛脚とい云う。その飛脚より文をも物をも預かりて致す者を
宰領(さいりょう)と云うめり。島屋某の宰領に徳江栄清と言う人あり。
天保3年12月某国に上野に往かんと桶川駅に到りけるに、許多の金を収
めたる荷一箇を奪われたりければ、公(幕府)にも訴え申し出て、岩根凹
めて、馬爪の至ん限りを探索せしめ給えるに、其行方更に知る由無ければ、
同四年正月より二月にかけて、食を断ち命に換えて高雄山に誓い白せども、
其の験なきを其の女茂世、伊父の志の達せざるを深く惘みて、日毎身を潔
めて浅間神社に乞祈つるに将其の詮有らずなも有りけれぱ、其の五月九日
に自ら身罷りにき茲に年二十二也。其の主に忠なる、其の親に孝なる其の
心は賞可きを父も子も其の志を得ざるなむ。また、惜しむ可き事なりける。
安政2年5月9日、穂積重胤ここに誌し伝ふるになも。
                     大竹培書并篆額 宮亀年鐫
                     京都和糸絹問屋中
                              建
                     島屋佐右衛門組中

 伊勢崎市太田町512の南側。元々は太田町薬師鉱泉旅館「金瓶館」の
南、薬師堂参道南側の松の木の下にあったのを昭和38年4月15日に現
在地に移転した。 高さ約1.7メートル。
 安政2年(1855)5月9日、「京都和糸絹問屋中」と「島屋佐右衛
門組中」が協同で建碑した。孝女茂世については碑文にあるように江戸期
に推奨された徳目である。”親孝行”という美談にくるまれている。実際は
どのような事情で自死してしまったのかは不明である。
 しかし、この場合、京都和糸絹問屋と嶋屋佐右衛門組が建碑を実現させ
たという点が重要である。うがった見方かもしれないが、御用を確実に請
け負いたい両組としては孝女茂世の美談を前面に掲げ、業者の製品や荷物
への誠実さ、奉公人の仕事への真摯な態度をPRしたい動機があったとも
考えられる。
 山本廣信氏は「この年の11月に火付盗賊改役の太田半助によって、犯
人が越後で召し捕られた。木島の大谷宗右衛門の書き残した『一代光陰録』
に、『島屋の金子を追落し候盗賊越後へ逃れ去り、手続き相知れ、御取締
役太田半助殿越後へ馳せ向い御召捕なり』とある」と記す。