伊勢崎銘仙アーカイブス

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 膳桂之助物語


 膳桂之助(ぜん けいのすけ) 伊勢崎市出身の官僚・政治家・実業家
  明治20年(1887)7月21日~昭和26年(1951)11月25日 享年64歳
      2024年現在 生誕137年 没後73年

 戦後、昭和21年(1946)第一次吉田茂内閣で国務大臣 経済安定本部総務長官に就任

 国民と労働者の生活向上を図る

 大正9年(1920) 初代の工務局労働課長時代に
「健康保険法案」
を立案し、大正11年3月国会を通過させる

 昭和9年 (1934)
非営利会社「日本団体生命保険株式会社」
 (現 アクサ生命保険株式会社)を発足
 創業精神は経営者は法により労働者の福祉を図るのではなく
経営者は自ら進んで労働者の幸福を図る考えで膳桂之助が中心
となり研究し発足させ専務取締役に就任し、後に昭和17年
取締役社長に就任









 膳桂之助は「膳城跡」地を寄付した
  場所:前橋市粕川町膳83-2

 膳桂之助のルーツ
  膳は父親から祖先は膳城主だと聞かされて
 おり、膳家に関する古文書等を集めていた
  鎌倉時代に苗字は
  三善(みよし) → 善 → 膳
 と改名してきた
  鎌倉時代に居城し、戦国時代(1572)
 に落城、現 伊勢崎市上植木本町の川端某を
  頼り居住し農民となった







 石碑「膳城̪趾」の左に副碑「史蹟膳城」がある *副碑翻刻抜粋
 昭和24年3月11日 県はこの古城趾を史蹟として指定 旧城主の末孫 膳桂之助は永年
 保存を祈念しこれを大字膳に贈与した
 遺志をついだ嗣子 雄之助は村民の浄財浄力により城趾碑を建て膳家の親族有志相諮りこの
 副碑を建設し永遠の記念とする
                 昭和29年3月吉祥日 須藤義雄撰書



  最近の電話帳(ハローページ)には「膳」の苗字は伊勢崎市内に30軒でその内20軒
  は上植木本町である

  膳の祖父 浅右衛門好長と父 浅次郎が調べた「善氏系譜之奥書」がある

   曽祖父 膳浅右衛門(好広) 寛政6年(1794)6月5日逝去79歳
   祖父  膳浅右衛門(好長) 文化12年(1815)11月22日
                ~明治16年(1883)1月20日逝去69歳
   父   膳浅次郎(好孝)   明治29年(1896)9月28日逝去59歳

  江戸後期に曽祖父 膳浅右衛門(好広)が上植木村から伊勢崎町字新町(あらまち
  現 伊勢崎市大手町)へ移住、薬舗を創業する

  *明治3年に旧官名禁止令を政府は発布し、右衛門 の使用は禁止された

  父 膳浅次郎(好孝 幼名 万二郎)
    明治29年(1896)9月28日 脳溢血で逝去59歳、時に桂之助9歳
   伊勢崎織物同業組合史P37より
   明治10年代
  (土地には独立した染粉屋など一軒もなく・・商売の片手間に取扱う店二、三軒あった
   位だ。伊勢崎町新町の小暮久兵衛(荒物薬類) 同じく新町の膳浅次郎(薬類)西町に
   長島という薬店もあった。)
    販売商品は薬種が主で、染料・壁材料・砂糖・筆紙・荒物、又 支金庫もしていた
   従業員は約15人
    身体は弱く、和歌を好み前橋の尾高高雅(おだか たかまさ)の高弟
   明治34年(1901)家業破産 時に桂之助は前橋中学2学年


      明治37年3月刊行「群馬県営業便覧」


長兄の嫁は
買継商「なべや」
下山求平から嫁いでいる

現在 大手町24
アパホテル伊勢崎駅南
の南前の駐車場





 兄弟姉妹 男四人、女六人(戸籍では兄の一人は早く他界三男)
 父  膳浅次郎(好孝)    
 長兄  元蔵   先妻の子
桂之助の母の姉 
 同妻  ?  隣りの下山求平の娘?  下山求平
 姉  すま  前橋へ嫁ぐ  先妻の子
桂之助の母の姉 
 母  前橋
松井氏しげ
晩年は東京で生活 
大正12年3月3日逝去
 糖尿病
高橋孝太郎診察
 姉  梅子    
 姉  竜 喜代    
 次兄  岩田孝助    
 本人  膳桂之助    
 妹  飯塚稔(とし)    



 膳桂之助は
  伊勢崎町字新町 薬舗膳浅次郎の四男(後の戸籍では三男)として生まれる

 明治34年 伊勢崎教会の牧師 富永徳磨 教会堂新築 伊勢崎町字赤石(現 北小)
       富永牧師は近郊の青少年を集め日曜学校で講話をしていた
       膳桂之助は富永牧師の影響を大きく受けていた
 明治36年 国語教師排斥 ストライキ事件
       前中の3年生の時、国語担当の教諭が能力が無く生徒の質問に答えられず
       辞職勧告をせまるが上手く行かないでストライキへと発展、
       緊急父兄会席上において膳桂之助演説を行う
       首謀者(級長)として論旨(ゆし)退学となる
 明治38年(18歳)東京の立教中学校時代に東京にて洗礼を受ける

 大正3年(27歳)7月10日 東京帝国大学法科大学卒業
          9月18日 山口孝太郎二女國(國子)と結婚

 東京朝日新聞群馬版の見出し
 昭和 4年(1929)11月10日 森村堯太氏を中心に 膳桂之助氏を擁立
      呼声高まり近く交渉 実現すれば郡外散票せん(佐波民政クラブ)
      *昭和5年2月20日の第17回衆議院議員総選挙
 昭和12年(1937)2月21日 資本家代表の膳桂之助さんが帰省27日に墓参
      に伊勢崎へ
 昭和12年(1937)2月27日 特輯談話 回想の上州ツ魂 寿府(ジュネーブ)へ
      鹿島立つ日を前にけふの帰省 語る人膳桂之助氏
 昭和12年(1937)3月10日 昔の同窓百名から これは嬉しい餞け 
      あす鹿島立つ資本家代表膳桂之助氏へ
 昭和14年(1939)6月28日 児童用幼児用 両プール 伊勢崎に完成
      *板垣清平、膳桂之助、中沢豊七の寄付により伊勢崎水泳場第二期工事
       (現 第一保育園)


   膳桂之助年譜 その1(誕生から学生時代)
 西暦  年齢  出来事
 1887
明治20年
 0  7月21日 伊勢崎町字新町 父 薬舗 膳浅次郎(好孝)50歳
母(前橋 松井氏)しげ 四男
 1891
明治24年
 4  4月 伊勢崎尋常小学校予習科入学
甥 貞二郎の入学に伴い年足らずで特別な入学許可
 1896
明治29年
 9月28日 父 膳浅次郎(好孝)逝去 59歳
この頃、近所でよく遊んだ友達に高橋孝太郎、中沢豊七がいた
 1900
明治33年
13  3月 伊勢崎組合立高等小学校首席で卒業
4月 群馬県立前橋中学校入学 (修業年5年)
 姉 竜喜代の家(南曲輪町)に甥 貞二郎と寄宿
同郷の同級生 森村良策、武晴宜、下城虎一、森村茂樹等
 1901
明治34年
14  4月 2学年進級 首席特待生 伊勢崎の薬舗 破産
秋より前中の寄宿舎に入る
 伊勢崎教会 伊勢崎町字赤石(現 北小)牧師 富永徳磨は
近郊の青少年を集め日曜学校で講話をされていた
膳桂之助は富永牧師の影響を大きく受けていた
 1903
明治36年
16  3月 3年生にてストライキの首謀者として論旨(ゆし)退学
4月 家業 破産ご東京で事業を創めた長兄を頼り上京
退学処分のため公立中学に転校出来ず、渡米を夢みて
正則英語学校に入学
 1904
明治37年
17  4月 築地 立教中学 4年に入学
甥 貞二郎が上京し 薬学校に入学 共に京橋に部屋を借りる
 1905
明治38年
18  4月 立教中学 首席にて5年生に進級
キリスト教の洗礼を受ける クリスチャンネームはパウロ
 1906
明治39年
19  3月 立教中学 首席卒業
9月 一高(第一高等学校) 独法(ドイツ法) 首席にて入学
一高の修業年3年、その後無試験で東京帝国大学 修業年3年
結核のため一年留学
 1910
明治43年
23  6月 一高卒業
 1914
大正3年
27  7月 東京帝国大学法科大学卒業(独法兼修)





   膳桂之助年譜 その2(官僚時代) 在官12年
 西暦  年齢  出来事
 1914
大正3年
27  7月 農商務省 商工局 監理課 勤務
9月18日 山口孝太郎二女 国と結婚  キリスト教会にて
11月 文官高等試験合格
 1916
大正5年
 29  5月 八幡製鉄所 副参事
 1918
大正7年
 31  1月 米国出張 製鉄所の調査(販売方法)
8月 帰国
 1920
大正9年
 33  4月 本省に戻り、工務局工場課勤務
8月 農商務省に労働課新設、初代の工務局労働課長に就任
 1921
大正10年
 34  健康保険法案の立案にあたる
 1922
大正11年
 35  3月 健康保険法案の国会両院通過(説明答弁)
11月 工務局能率課新設、能率課長に就任
工業品規格統一(JIS)調査会 幹事被仰付(おおせつけられ)
 1923
大正12年
 36  4月 商務局市場課新設 市場課長に就任
9月 関東大震災では、臨時震災救護事務局事務官
 1924
大正13年
 37  12月 農務局繭糸課長に就任
輸入生糸検査法を制定
 1926
昭和元年
 39  12月28日 官を辞して、日本工業倶楽部主事に就任 




   膳桂之助年譜 その3(日本工業倶楽部・全国産業団体連合会・
              日本団体生命株式会社 時代)
 西暦  年齢  出来事
 1926
昭和元年
 39  日本工業倶楽部では組織の活性化のため、大物の事務局長
(主事)として膳桂之助を迎えた
 1932
昭和7年
 45  日本工業倶楽部常任理事に就任
 1934
昭和9年
 47  3月 日本団体生命株式会社創設 専務、社長、会長を歴任
 1937
昭和12年
 50  3月 第23回 I・L・O総会に使用者代表委員



   膳桂之助年譜 その4(政治家時代からその後)

  鈴木貫太郎(すずき かんたろう) 慶応3年(1867)~昭和23年(1948)
    厩橋学校(現 前橋市立桃井小)から明治14年(1881)に群馬県中学校
    (現 前橋高等学校)に入学、明治17年(1884)海軍兵学校に入校
    日本海海戦の勝利に貢献、大正12年(1923)海軍大将、翌年は連合艦隊
    司令長官
    昭和4年(1929)昭和天皇の侍従長、二・二六事件では青年将校に襲撃される
    昭和20年(1945)4月内閣総理大臣・戦争末期首相、ポツダム宣言受諾

  吉田茂(よしだ しげる) 明治11年(1878)~昭和42年(1967)
    明治39年(1906)東京帝国大学政治科卒業、外交官、駐英大使等を歴任
    戦後、昭和20年9月 外務大臣、昭和21年(1946)5月日本自由党総裁
    内閣総理大臣に就任、昭和26年(1951)サンフランシスコ講和条約に調印

  経済安定本部の構想
    第二次世界対戦直後の経済安定の基本政策並びに緊急施策の企画立案、物価の統制
   等を担当した内閣総理大臣直轄の行政機関

 西暦  年齢  出来事
 1945
昭和20年
 58  4月 鈴木貫太郎内閣成立
9月 東久邇宮内閣成立 吉田茂外務大臣に就任
 1946
昭和21年
 59  5月 第 1次 吉田茂内閣成立
6月 膳桂之助 貴族院議員に勅選。国務大臣、経済安定本部総務長官、
物価庁長官に就任
 1947
昭和22年
 60  1月 国務大臣依願免本官
4月 参議院選挙に全国区より出馬、群馬県から23万余票とその他
3万余票、合計26万余を得て第16位で当選するが、
GHQから追放指定を受け即日当選を辞退
 1949
昭和24年
 62  1月 群馬県前橋市に日本団体生命保険株式会社群馬支社開設
 1951
昭和26年
 64 11月25日逝去
墓所 多摩霊園  霊名 フランシスコ 昭和26年11月1日受洗 
従三位勲三等瑞宝章
 1970
昭和45年
 ー  6月29日 伊勢崎商工会議所共済制度発足
 1975
昭和50年
 ー  8月6日 伊勢崎商工会議所内に
 日本団体生命保険株式会社伊勢崎分室開設






 出典・参考図書

 膳桂之助追想録  昭和34年 編集者 吉野孝一 発行者 日本団体生命保険(株) 非売品
 前橋高校八十七年史 上・下 昭和39年 発行者 前橋高校学校 非売品
 新版 前橋の文化財 平成23年発行 前橋市教育委員会



 備忘録

 竜知恵子 膳桂之助の姉 喜代の娘、姪

 明治32年(1899)~ 昭和57年(1982) 医師
 明治32年11月18日生まれ昭和23年竜内科診療所をひらく33年国際女医会総会に
 日本代表として出席 39年日本女医会会長。脳性マヒ児を守る会理事長などをつとめ
 肢体不自由児の治療につくした。
 昭和57年6月7日死去。82歳 群馬県出身 帝国女子医専(現東邦大)卒

 1930年 帝国女子医専(現:東邦大)卒業
 1948年 竜内科診療所開業
 1955年 日本女医会副会長就任
 1958年 国際女医会総会に日本代表として出席
 1962年 紺綬褒章受章
 1964年 日本女医会会長就任
 1965年 吉岡弥生賞受賞
 1973年 勲四等瑞宝章受章
 1982年 死去