羽尾(はお) 変じて 覇王(はおう) と称する
*羽尾は全国的には「はお」と呼ぶ、商才の羽尾勘七を「覇王(はおう)」と称した
*養子と襲名を繰り返しているので、個人の特定が困難
*家督相続は実子ではなく、長女が養子をとり事業承継が図られた
群馬県吾妻郡に羽根尾城跡、埼玉県比企郡に羽尾城跡がある
羽尾の名字は全国には400人で、その内伊勢崎市馬見塚町に10人が存在する
羽尾勘七(はねお かんしち) 伊勢崎の織物買継商・経営者
万延元年(1860)5月1日 埼玉県 相澤太平次の長男 萬作
明治11年(1878)11月 先代羽尾勘七の養子となる
明治13年(1880)4月 養子 正三 生まれる(7代目)
明治18年(1885)3月 みを 養子 正三の妻 生まれる
明治22年(1889)12月 家督を相続し勘七を襲名
大正14年(1925)1月逝去(90歳以上の年齢?)
羽尾勘七(はねお かんしち)は襲名である
ここでは伊勢崎織物同業組合の組合長を務めた六代目の羽尾勘七を主に解説する
(昭和6年発行の伊勢崎織物同業史)
羽尾勘七(はねお かんしち)の祖先は江戸中期(享保)から雑貨店
を始め、江戸後期(嘉永)には酒井下野守(さかいしもつけのかみ)
より絹買商の免許を受ける
明治の初年に買継商を開始し、桐生の書上氏に次ぐ取引高となる
経営手腕はずば抜け
1、郵便販売で支那、印度、フィリピン遠くはシベリアに達した
2、全国重要な地に2、3名の店品を派して其取引状況嗜好品を
調査させ、時勢に遅れざらんことに努めた
明治21年10月 伊勢崎銀行創立に参画
明治38年 3月~明治40年12月
伊勢崎織物同業組合 組合長
明治42年11月~明治44年3月
伊勢崎織物同業組合 組合長
大正14年 1月 逝去(90歳以上の年齢)
(群馬県の代表的人物並事業 大正6年発行)
羽尾商店
群馬県佐波郡伊勢崎町956番地
(現 伊勢崎市本町2丁目交差点 南)
旧姓名 | 出 身 | 襲名年 | |
六代目 | 相澤萬作 | 埼玉県 相澤太平次の長男 蔓延元年5月1日生 |
明治11年11月養子 明治22年12月家督を相続し 羽尾勘七を襲名 |
七代目 | 細野正三 | 伊勢崎町 細野右左二(伊勢崎町 副戸長)の三男 明治13年4月生 |
明治13年4月養子 六代目の長女 みを と結婚 大正14年1月家督を相続し 羽尾勘七を襲名 |
八代目 | 大島四郎 | 太田町(現 太田市)上毛実業銀行 頭取 大島戸一の四男 明治35年4月生 |
七代目の長女 テイ と結婚 養子、羽尾四郎となる |
大正14年11月23日 七代目の羽尾勘七(明治13年生)は株式会社に組織変更し、
株式会社羽尾商店 取締役社長に就任
八代目の羽尾四郎(明治35年生)は専務取締役に就任
「東京朝日新聞群馬版」より
大正14年 1月31日 群馬産業界の偉勲者買継王逝く 伊勢崎町の大恩人
奮闘的人格者羽尾勘七翁
2月 1日 羽尾翁の功績は偉大のものだ 大正九年の恐こう切り抜けが
第一の功=葉住松堂氏談
2月21日 伊勢崎町役場問題 羽尾氏生存せば 此の紛争はなかろう
11月25日 羽尾商店の 株式組織実現 社長以下重役決定 二十三日
創立総会開会
12月22日 上毛織物会社 二十万延欠損
大正15年 4月21日 伊勢崎の不況は 賃織が原因だ 生産過多は之が爲め
= 羽尾勘七氏の観測 *羽尾勘七は襲名
昭和13年 2月 2日 羽尾商店 排撃決議 足織買継商組合で
会社・団体名 | 設立・所在地 | ことがら |
伊勢崎銀行 | 明治21年10月6日 伊勢崎町523 |
|
伊勢崎織物商工組合 | 明治27年2月 | 認可申請、評議員 |
上毛銀行 (第1次) |
大正8年7月11日 伊勢崎町973 |
頭取 羽尾勘七 |
伊勢崎倉庫(株) | ||
利根発電(株) | ||
幸手電燈(株) |
貴族院多額納税者名鑑 大正14年(1925)6月1日現在
*大正14年(1925)からは県ごとに多額納付者100名につき1名または
200名につき2名に改正
*群馬県上位100名中で現伊勢崎市在住者は11名
*当該者の大半は襲名のため生年を記載
氏 名 | 住 所 | 職 業 | 直接国税総額(円) | 生 年 | |
1 | 羽尾勘七 | 伊勢崎町 | 太物商 | 8,667.13 | 明治13年 7代目 |
2 | 本間千代吉 | 赤堀村 | 農業 | 5,993.51 | 明治21年 2代目 |
3 | 関重兵衛 | 伊勢崎町 | 原料糸商 | 3,962.16 | 慶応3年 |
4 | 金井直次郎 | 伊勢崎町 | 太物商 | 2,970.68 | 安政2年 |
5 | 町田伝七 | 伊勢崎町 | 醤油醸造業 | 2,054.26 | 文久2年 3代目 |
6 | 大島宗平 | 伊勢崎町 | 肥料商 | 1,817.85 | 明治11年 |
7 | 佐藤藤三郎 | 伊勢崎町 | 原料糸商 | 1,662.32 | 明治12年 |
8 | 森村堯太 | 宮郷村 | 銀行員 | 1,252.55 | 明治20年 2代目 |
9 | 下城弥一郎 | 殖蓮村 | 機業 | 1,200.31 | 明治11年 3代目 |
10 | 石原善平 | 剛志村 | 機業 | 1,199.87 | 明治9年 |
11 | 徳江工 | 宮郷村 | 農業 | 1,190.10 | 明治2年 |
伊勢崎市大手町11-20
旧設楽外科医院の西塀
伊勢崎織物会館の北東の信号の交差点
から一方通行の道を東へ10m
区画整理で交差点付近から見える
(写真 レンガ塀の外側(南から北))
羽尾商店は
明治43年館林町に出張所を設ける
大正6年に買継部を分離し大手町(当時は
新町)に店舗を移転
レンガ塀は羽尾商店の倉庫・作業場として
利用された建物の塀である
レンガの積み方はイギリス積である
(富岡製糸場はフランス積)
(写真 レンガ塀の入口(外側))
設楽家のご厚意により特別に
レンガ塀の内側から撮影が出来た
(写真レンガ塀の入口(内側))
昭和20年8月14日の伊勢崎空襲で建物は
焼失し、レンガ塀が残る
その後は伊勢崎製糸株式会社(所在地
栄町20番地 昭和23年~昭和33年)
の工女さんの 2階建寄宿舎としてされ、
設楽外科医院になった
(写真 内側から(東側)北端)
就任年月 | 組合名 | 役職名 | ことがら |
明治27年 2月 | 伊勢崎織物商工組合 | 評議員 | 伊勢崎織物商工組合 認可 |
明治28年 2月 | 〃 | 副組長 | |
明治29年 4月 | 〃 | 〃 | |
明治31年 3月 | 〃 | ||
明治34年 2月 | 伊勢崎織物同業組合 | 評議員 | |
明治36年 3月 | 〃 | 副組長 | |
明治37年12月 | 〃 | 〃 | |
明治38年 3月 | 〃 | 組長 | |
明治40年 3月 | 〃 | 〃 | |
明治40年12月 | 〃 | 評議員 | |
明治42年 3月 | 〃 | 〃 | |
明治42年11月 | 〃 | 組長 | |
明治45年 3月 | 〃 | 評議員 | |
大正 4年 3月 | 〃 | 〃 | |
大正 7年 2月 | 〃 | 〃 | |
大正10年 2月 | 〃 | 〃 | |
大正13年 2月 | 〃 | 〃 | 六代目 大正14年1月逝去 |
昭和 2年 2月 | 〃 | 〃 | 七代目 就任 |
機 屋 | (機屋は販売機能を持たない) | ||
↓ | |||
サイトリ | (買継商へ取り継ぐ商売) | ||
↓ | |||
買 継 商 | |||
↓ | |||
大都市の問屋 ・ 百貨店 | (東京・大阪・京都・名古屋等) | ||
↓ | |||
呉 服 店 ↓ | |||
↓ | |||
消 費 者 |
七代目 | 細野正三 | 伊勢崎町 細野右左二(伊勢崎町 副戸長)の三男 明治13年4月生 |
明治13年4月養子 六代目の長女 みを と結婚 大正14年1月家督を相続し 羽尾勘七を襲名 |
八代目 | 大島四郎 | 太田町(現 太田市)上毛実業銀行 頭取 大島戸一の四男 明治35年4月生 |
七代目の長女 テイ と結婚 養子、羽尾四郎となる |
伊勢崎空襲の記憶を留めるレンガ建造物
所在地 伊勢崎市曲輪町26
案内板(翻刻)
このレンガ建造物は、伊勢崎都市計画事業
伊勢崎駅周辺第一土地区画整理事業により、
現在の場所に移転されました。本来の場所は、
およそ六十m東にあった旧設楽外科医院
(大手町十一番二十号)の裏庭にありました。
古くは江戸時代に端を発し、明治、大正、昭和初期と伊勢崎織物産業が隆盛であった時代
一翼を担った絹糸買継商を営んでいた旧羽尾商店の倉庫兼作業場の建物の壁の一部として利
用されていたと伝えられています。
伊勢崎市は、第二次世界大戦の終戦の日、昭和二十年八月十四日深夜から十五日未明にか
け米軍のB29爆撃機八十八機による焼夷弾爆撃「伊勢崎空襲」を受けました。
その被害は、昭和三十年に合併された三郷村、宮郷村、名和村、豊受村も含め四十名の犠
牲者を出しました。
市街地は、約四十%が猛火に包まれました。この建造物もその中にあり、炎に焼かれなが
らも耐え残り、生々しく黒く焼け残った痕跡は当時の焼夷弾の威力と戦争の悲惨さを今に伝
えています。
西に隣り合う旧時報鐘楼(市指定重要文化財)も同様にそのレンガ表面に猛火の痕跡が濃
く残されており、戦争という悲惨な歴史に翻弄された時代がうかがえます。
令和3年3月 伊勢崎市