伊勢崎銘仙アーカイブス

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 金井烏洲物語







 金井烏洲(かない うじゅう
  伊勢崎市境島村出身 江戸後期の日本画家
  烏洲は号である
 1796(寛政8年)~
 1857(安政4年)1月14日 享年62歳
 2021年現在 生誕225年 没後164年

  江戸時代1603年~1868年 265年間
  江戸後期1750年~1850年
  江戸末期1850年~1868年
  明治元年1868年 152年前








 南画(なんが) 南宗画(なんしゅうが)
  中国の南宗画に由来し
  日本では江戸中期以降の画派
 文人画(ぶんじんが)
 
 文人が余技として描いた絵 南宗画と同義

 呑山楼(どんざんろう)
  1815(文化12年)に父 萬戸(ばんこ)が長兄 莎邨(しゃそん)のために建築した
  書斎、1824(文政7年)莎邨の逝去ごが金井烏洲がアトリエとして使用
  1910(明治43年)8月利根川の氾濫で金井家は呑山楼も含め南岸の現在地へ移築
  伊勢崎市境島村2439 金井義明(よしあきら)家 烏烏洲の末裔、西隣りが父 萬戸
 (ばんこ)の書斎 華竹庵で現在は蕎麦店





 伊勢崎市指定重要文化財
 金井烏洲筆 赤壁夜遊図(せきへきやゆうず)

 指定日 昭和42年2月10日
 所在地 伊勢崎市境島村 T氏 個人所有

 絹本水墨聯落茶緞子三段表装牙軸二重箱入
けんぽん すいぼく れんおち ちゃどんすさんだんびようそう
げじく にじゅうばこいり

 制作年 嘉永4年(1851)56歳
 中央左端の署名「辛亥春日写烏洲老泰」
 烏洲絵画の最も円熟し独自の画境に到達した時期
 の代表作品










 金井烏洲の作品をインターネットで鑑賞
 
伊勢崎市インターネット 美術館 金井烏洲






  上州佐位郡島村(現 伊勢崎市境島村)の父 金井 文八郎(通称 彦兵衛、
  晩年は華竹庵 萬戸 かちくあん ばんこ)
  母 伊勢崎市下道寺町出身の多賀谷 春栄(すえ)の次男に寛政8年に生まれる
  家業は代々養蚕農家で養蚕長者 万古大尽と称された

  烏洲は号で、名を泰(たい)、諱を時敏、字は林学、通称左仲太のちに彦兵衛を襲名
  文化7年(1810)来遊した春木南湖(はるき なんこ)に就いて画を学び、
  江戸に出て谷文晁(たに ぶんちょう)を師友す
  文政2年(1819)武州新戒村の福島 紀伊と結婚

  天保11年(1840)上野国子持村 白井 雙(双)林寺(そうりんじ) 襖絵を揮毫
    渋川市中郷2399


 弘化 元年(1844)前橋 龍海院(りゅうかいいん) 大維摩(ゆいま)像を揮毫
    前橋市紅雲町2-8-15




 烏洲先生遺墨集
 大正8年(1919)発行
 編集 金井四郎
 出版 芸術社


 大維摩像は龍海院から東京にわたり
 大正11年の大震災で焼失













  嘉永2年(1849)頃より伊勢崎藩への莫大な貸金50両が貸し倒れとなり破産状態
  となる。
  嘉永6年(1853)日光で執筆した「無声詩話」を著す
  最晩年は生家 呑山楼(どんざんろう)で書画三昧の生活を送った
  安政4年(1857)1月14日62歳で没した
   戒名「林学院烏洲泰翁居士」



 群馬県指定史跡「金井烏洲と一族の墓」
  指定日 昭和48年12月24日
  所在地 伊勢崎市境島村2344-1
   1、烏洲(うじゅう) 寛政8年(1796)
              安政4年(1857)1月14日没62歳
   2、萬戸(ばんこ)  父 俳人 天保3年(1832)5月18日没63歳
   3、莎邨(しゃそん) 兄 詩人 文政7年(1824)3月14日没31歳
   4、研香(けんこう) 弟 南画家 文化3年(1806)
              明治12年(1879)没74歳
              境町糸一図は有名
   5、杏雨(きょうう) 次男 画家  文久3年(1863)没39歳
   6、之恭(ゆきやす) 四男 政治家 書家
              天保4年(1833)9月4日
              明治24年(1891)貴族院勅撰議員
              明治40年(1904)没75歳




 金井烏洲先生碑

 所在地 伊勢崎市華蔵寺公園
     (戦前は 伊勢崎公園 )
     華蔵寺裏山(通称)
 建立年 昭和4年11月
 建立者 島村村民有志
 題額・撰者・書者 渋沢栄一






































士之勤王事克盡其節以顯章祖先遣烈垂懿範于後昆者可謂忠孝雙全也如烏洲先生其庶幾乎先生諱時
敏字林學初名泰通稱左仲太後改彦兵衛琥烏洲姓源金井氏上州佐位郡島村人系出於新田義貞支族金
井義長十數世孫長徳善俳諧號萬戸配多賀谷氏先生其次子也幼而穎悟力學弱冠游江戸學朝川善庵菊
池五山古賀侗菴諸家又好畫暇則弄彩管爲楽初師春木南湖後與谷文晁交善先生毎幡史至南朝慷慨不
能自禁潛有回天之志適會千種有功卿奉命赴晃山請謁輸誠頗有心契天保三年春西游先謁伊勢大廟自
月瀬赴南都觀口皇稜之荒廢痛惜不已把筆作圖涙隨筆而下既入京頼千種卿獻之朝廷尋訪頼山陽於水
西荘眎所作月瀬書巻山陽大喜自題筆籠萬玉四大字賦三絶句爲贈更書詠新田左中将詩託諸先生贈新
田氏又輿梁川星巌小石元瑞等詩酒徴逐而與山陽交情尤密云發京師遊天橋登成相山睥睨北海雲濤至
浪華興篠崎小竹後藤松陰等締交進航四國過藝備防長将遊九州父病急遽東歸不及屬纊哀慟欲絶居喪
盡禮嘉永六年米船來浦賀朝野騒然先生聞變陰有所畫策竟不果諸藩志士託交書畫而來投頼其庇護免
危難者甚衆於是家産漸傾身亦蒙幕府嫌疑乃携其子梧樓遁児山閉門讀書著無聾詩話無聾詩蛆及晃山
紀勝諸篇安政四年正月十四日病革戒諸子曰汝等克繼乃翁志則吾雖死猶生耳端然而瞑壽六十二辭世
詩云小技無由報國君一生誤混畫師群可以知其志所存也後年門人田崎草雲倡勤王子之恭擁宗系新田
俊純勤王事皆重遺命也大正七年十一月十八日朝廷嘉奬其功贈従五位東久邇宮妃聰子内親王亦賜御
詠可謂有餘榮也配福島氏生五男四女長夭次温號杏雨承祀亦善書畫三子良出襲川越町井上氏通繪事
號藝林四子之恭號金洞別號梧樓又錦鶏能屬文最妙筆札仕自内閣大書記官歴任元老院議官勅選議員
錦鶏閒祗候敍従三位勲二等名重於朝野皆既就世其子孫亦克奉家訓云今茲州人胥議建碑圖先生不朽
徴余文余與金洞相識且欽先生雙全忠孝也乃据状撰次如此
    昭和四年十一月   従二位勲一等子爵渋沢栄一撰并書時年九十


 出典・参考
  烏洲先生遺墨集 金井四郎  芸術社        大正8年
  金井烏洲    しの木弘明 群馬県文化事業振興会 昭和51年
  関東の文人画展 群馬県立近代美術館        昭和52年
  島村の石碑   ぐんま島村蚕種の会        平成25年