伊勢崎銘仙アーカイブス

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 栗豊(くりとよ)株式会社
  窪田濤三郎(くぼた とうざぶろう)物語

 栗豊株式会社は戦後、日本最大の織物買継商だった

  明治38年(1905)~平成13年(2001) 享年96歳
  2024年現在 生誕119年 没後23年




 窪田濤三郎は伊勢崎産地の織物買継商として昭和23年の
繊維統制解除を待ち、水を得た魚のように昭和30年代には
戦後の銘仙ブームを迎え栗豊は伊勢崎産地の売上の3分の1を占めた
 栗豊は繊維関係において経営の多角化を図り昭和35年には
60億円の売上に達した
(参考 サンデン株式会社の昭和35年の売上は23億円)






 買継商以外でも伊勢崎市のために貢献
 昭和38年には行政からの依頼で伊勢崎ガス(株)を設立し初代の社長に就任
 昭和45年に完成した伊勢崎商工会議所会館の建設費1億8千万円を募金で集めた
 晩年は福祉や文化活動を行った


  買継商(かいつぎしょう)て何?
  栗豊の業種は正式には「繊維製品卸売業」であるが、「織物買継商」と呼ばれる
 伊勢崎銘仙を生産する機屋と大消費地の東京や関西方面を中心に全国の織物問屋との間に立っ
 て売買を斡旋した
  また「買継商」は北関東を中心としたエリアだけに存在する業種である

  問屋無用論?
  問屋無用論がある 産地の機屋が直接全国の織物問屋へ販売すれば良いことである
  しかし、伊勢崎産地の機屋は小規模性が高く、販売機能を持たない
  買継商が機屋に対しての販売機能と合わせて売れ筋の意匠等の商品情報の提供や場合に
  依ってはお金を貸したりの金融的支援も行ったのである

  口銭(こうせん)?
  口銭は機屋から預かった織物が販売されると買継商が受け取る斡旋手数料のことである
  その時の経済情勢によって手数料がかわる 数パーセントである
  また、返品に伴うリスクもその時の経済情勢でどちらかがかぶる

  不思議な栗豊
  今、栗豊(くりとよ)株式会社を知る人は少ない、40年くらい前であるが法人企業の資料
 を見ていて、伊勢崎税務署管内の企業で資本金が1億円以上の企業は税務申告を伊勢崎税務署
 ではなく、関東信越国税局へ行うのである。 局所管でサンデン株式会社(当時は三共電器)
 やアイオー信用金庫(当時は伊勢崎信用金庫)等は理解できるが栗豊株式会社はどの様な会社
 か大いに気になったことがあった

  買継商として30年間地元・業界のナンバーワン企業として君臨した
  昭和23年の繊維統制解除から昭和53年の買継部の閉鎖までの30年間業界をリードした
 金融機関が指導したと聞くが栗豊の買継部を伊勢崎織物工業組合共販部へ移管した
  栗豊買継部の取引先と従業員を伊勢崎織物工業組合が引継いだのである
  当時、栗豊から組合へ移った方に聞くと機屋の集まりの組合と買継商が一緒になり利害対立
 することもあり上手く行かなく栗豊から移った者は独立し個人で買継商を開業したと話す
  伊勢崎織物工業組合も業界の低迷で昭和62年に共販部を閉鎖した

  栗豊は多角化経営へ
  昭和47年 高崎市にボウリング場をオープンさせる
  昭和47年 ミスタードーナツを高崎市にオープンさせる
  伊勢崎の織物関係者に共通することであるが、不動産を地元以外にも各地に所有しており
 不動産の運用が大きな課題である


 

 西暦  和暦 年齢   出来事
 1905  明治38  0  窪田濤三郎 新田郡綿打村の機屋に誕生する
 1923  大正12 19   買継商 羽尾商店(羽尾勘七)に奉公する
 1943  昭和18 38   太平洋戦争下、軍需産業への転換で鋳物工場を始める
羽尾商店が埼玉県川口市に治が設立した栗豊鋳物工場を買収
 1946  昭和21 41  本社を伊勢崎市に移転し社名変更を考えたが
易者より「栗豊」の名称は縁起が良いと言われ継続
 1948  昭和23 43   繊維統制解除
 1949  昭和24 44   1月発行の「伊勢崎展望」掲載の広告欄には
 栗豊(株) 取締役社長 田中平八 専務取締役 窪田濤三郎
 本社 伊勢崎市新町36番地 工場 川口市本町3丁目53番地  
 1951  昭和26 46   4月伊勢崎織物協同組合創立 理事に就任
 1959  昭和34 54   伊勢崎法人会の監事に就任(昭和60年まで)
 1960  昭和35 55   栗豊(株)年商60億円
 1961  昭和36 56   8月伊勢崎商工会議所の副会頭に就任(昭和53年まで)
 1962  昭和37 57   2月に商工会議所会館建設・財務小委員長に就任し
建設費1億8千万円募金の責任者となる
昭和45年3月商工会議所会館完成
 1963  昭和38 58   伊勢崎ガス株式会社を設立し初代社長に窪田濤三郎が就任
 1969  昭和44 64   10月伊勢崎織物協同組合副理事長に就任(昭和49年まで)
 1972  昭和47 67   多角経営でボーリング場を高崎市にオープンさせ
続いて、ミスタードーナツを高崎市にオープンさせる
 1975  昭和50 70   栗豊(株)買継部を伊勢崎織物工業組合共販部へ移管
 1978  昭和53 73   伊勢崎市史年表に9月に栗豊(株)買継部閉鎖されるとの記載有り
 1983  昭和58 78   6月 長男 窪田三代志社長に就任
 1987  昭和62 82   伊勢崎織物工業組合共販部閉鎖
 1999  平成11 94   伊勢崎織物工業組合を解散し、伊勢崎織物協同組合に引継ぐ
 2001  平成13 96  窪田濤三郎 1月逝去

       窪田濤三郎氏の略歴は当ページ最下に記載の参考文献より合成





羽尾商店が埼玉県川口市に栗原豊治が設立した
栗豊鋳物工場を
買収
一番左の人物が栗原豊治である(昭和10年頃)






 伊勢崎商工会議所と窪田濤三郎


 昭和21年12月16日 社団法人伊勢崎商工会議所の設立総会を伊勢崎市役所で開催
 昭和22年 1月29日 商工大臣 星島二郎より設立許可(1月29日を設立記念日として
             いる)
             設立発起人総代 初代会頭 井下辰雄
             事務所 伊勢崎市新町(あらまち)15
                (現 アイオー信用金庫大手町支店の所在地)
 昭和24年12月12日 窪田濤三郎 伊勢崎商工会議所常議員に就任
 昭和26年 6月 1日 伊勢崎貿易会館二階へ事務所の移転
             伊勢崎市栄町97(伊勢崎織物組合敷地内)
             総工費 800万円、(群馬県400万円、伊勢崎市100万円
             商社250万円、商工会議所50万円、機屋50万円)
 昭和28年 8月 1日 特殊法人「商工会議所法」公布
 昭和29年12月21日 新法による伊勢崎商工会議所組織変更認可
 昭和36年 8月24日 窪田濤三郎 伊勢崎商工会議所副会頭に就任
 昭和37年 2月」8日 商工会議所会館建設実行委員会設置
             総務小委員長 田村織物(株) 田村秀雄
             財務小委員長 栗豊(株)   窪田濤三郎
             1億8千万円を会員から募金で集める
 昭和45年 3月    商工会議所会館完成する(現在地 伊勢崎市昭和町3919)
 昭和52年11月 2日 伊勢崎商工会議所創立30周年記念式典挙行
 昭和53年 7月    窪田濤三郎 伊勢崎商工会議所顧問に就任





 昭和52年11月伊勢崎商工会議所創立30周年記念事業


















久保田兄弟鉄工所 久保田茂一郎
田村織物(株)  田村秀雄
栗豊(株)    窪田濤三郎
(株)金井    金井栄一
財団法人伊勢崎銘仙会館
三共電器(株)  牛久保海平
明星電気(株)
富士重工業(株)伊勢崎製作所








 辛抱地蔵の建立



 窪田濤三郎は伊勢崎の郷土史研究家の井上俊郎
 (いのうえ としろう 明治44年生)と共に
 辛抱地蔵の建立に奔走(ほんそう)した
  世界遺産「富岡製糸場」は明治5年に操業を
 始めたが、伊勢崎では明治12年に徳江八郎
 (とくえ はちろう)が「徳江製糸所」を創業し
 昭和8年まで54年間操業した
  「徳江製糸所」の場所は伊勢崎市曲輪町の
 伊勢崎市立図書館の北に存在した
 女工達には手習いとして読み書きや裁縫を
 ヒマな時期に教えたとある
  しかし、当時の労働環境や親もとを離れた十
 代の女性達は大変な思いで勤務したであろう
 中には病気で若くして亡くなり引き取りてのな
 い女工10名が無縁仏として葬られた



  時が経ち、1994(平成6年)3月 井上俊郎は無縁仏が散乱しているのを哀れに思い供養
 を思ったのです 無縁仏には戒名はなく、名前、死亡日・年齢、出身地(遠くは京都、愛知)
 は記載されていた
  井上俊郎から相談を受けた地元繊維業界の重鎮 窪田濤三郎は井上と奔走することになる
 


    辛抱地蔵建立の由来碑

 小さな十基の墓は 生糸立国という時流の中
で 徳江製糸工女として明治二十年代から三十
年代にかけて 日夜製糸のきびしい労働と立ち
向かい 辛苦心労尼耐え哀歓を共にして 不
幸にも若くして命果てた無縁仏である
 春秋百年の歳月が流れたいま ここに眠る無
縁の仏たちの菩提を篤くとむらい 冥福を祈り
愛をこめてたくましく生きる現世ならびに永世
の人びとの暮らしに 心やすらぐ光のそそがれ
ることを本願として この地に辛抱地蔵を建立
した
  平成六年秋彼岸
          辛抱地蔵建立委員会
           撰文 井上俊郎





  窪田濤三郎が責任者となり339人から450万円の浄財が得られ、辛抱地蔵、由来碑や
 無縁仏の墓の整備の行い 1994(平成6年)10月辛抱地蔵の開眼供養を行った




 辛抱地蔵の場所
  目印は伊勢崎市太田町の斎場
 「伊勢崎メモリードホール」
  広瀬川にかかる三ッ家橋の北詰の
  左側の遊歩道の坂を下ると墓地がある
  墓の西端にある(橋から徒歩1分)








 栗豊株式会社には窪田濤三郎氏の指導を受けた優秀な従業員が多く存在した
 その中の一人 池田正良氏と生前でお会いした際に二つの文章を託され、機会が有ったら掲載し
 て欲しいと・・・
 一つはシベリア抑留の話なので今回は省略します


    伊勢崎織物のここ70年の盛衰を今考えて見ると

                                 池田正良

 昭和15年、16年、17年は戦争の真盛りで資源不足や物資統制令に依り物を買うには切符
制度となった又主働動力の若い男は兵役に召集されて国内は女性と子供が多くなり生産は食糧が
主体となった。 着物を着て歩く人は国賊の様な目でみられた時代だった
 昭和20年8月15日に終戦となり戦前の風習を思い起してぼつぼつ着物姿も復活し始めて、闇取引なれど銘仙等の生産も始まり布地、生地不足が長年続いていたので何んでも織物であれば
売れた時代が来た 機屋はガシャ萬と言われて機屋の数はどんどん増えて行った。
 郵便小包や身体に巻付けて東京、京都方面に売り歩いた。
 昭和27年に朝鮮戦争が始まり27年に停戦になるまで戦争景気で日本の景気を助けた。
 あまりの好景気なので機屋の中には粗悪品を作り売る者も出た。悪評を呼び急に不景気となり
織物組合の庭に莚旗(むしろばた)が建った事もあった
 そもそも普段着のきものは銘仙からウールに変る時となり伊勢崎産地は大きく遅れていて昭和
32年頃から産地を上げて研究、努力して昭和34年頃にウールの着物各品種が揃い産地商品は
殆どがウールのきものとなり昭和45年頃までは好景気が続いた しかし48年に世界的に原油
高のオイルショックに当り生活様式が大きく変り着物の需要の半減し年を追って又半減となり全
国的に女性も殆んどが洋装の毎日となり職場にどんどん進出する様になった
 昭和50年代が着物の最後年代となる様子だ





 栗豊株式会社・窪田濤三郎に関する参考文献

  昭和41年(1966) 伊勢崎織物協同組合発行 「伊勢崎織物史」
  平成 2年(1990) 群馬経済新聞社発行   「ぐんま経済図鑑」
  平成 3年(1991) 伊勢崎市発行      「伊勢崎市史 通史編3 近現代」
  平成 8年(1996) 伊勢崎商工会議所発行  「伊勢崎商工会議所50年史」
  平成 8年(1996) (社)伊勢崎法人会発行 「伊勢崎法人会43年のあゆみ」



 高橋ひろみ著「がちゃまん」
 群馬県出身、東京都在住
 文芸社より平成22年(2010)に発行
  価格900円+税

 女性の観点から窪田濤三郎の一生を語る
 大変分かりやすく書かれている