町田佳聲生誕130周年記念事業メモリアル

  町田佳聲(かしょう 本名 嘉章) 伊勢崎に明治21年(1888)6月8日生誕
    町田佳聲生誕130周年実行委員会(平成30年度事業で終了しました)

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         *町田佳聲又は町田嘉章の呼称は原則として出所に基づく


 町田佳聲(嘉章)の資料集・DBⅠ

 
 町田 嘉章の業績は
  昭和31年(1956)11月 68歳 紫綬褒章を受章
  昭和40年(1965)77歳 勲四等・旭日小綬章を受章
  昭和49年(1974)86歳 再叙勲 勲三等・瑞宝章を受章
  受章理由 「邦楽の研究に努め、全国の民謡を録音して五線譜に採譜。日本民謡大観
        を発表」

  昭和56年(1981)4月 93歳 吉川英治文化賞を受賞
  受賞理由 「多年にわたって各地の膨大な民謡の採譜録音を行い。それを体系づけ
        我が国の文化遺産の発掘保存に寄与」

 
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 1、昭和2年に北原白秋の依頼で「ちゃっきりぶし」を作曲、続いて昭和3年に
   作詞:北原白秋、作曲:町田嘉章で伊勢崎新民謡「からりこ節」を発表する
 2、「歌謡曲」という言葉は元々はクラシック用語であったが、町田嘉章が流行歌を指す
   言葉としてNHKの放送用語に使用し現在に至る
 3、全国津々浦々を単身で40年を費やし録音機を担ぎ民謡を採取し「日本民謡集成」
   「日本民謡大観」を刊行した
 4、民俗学の柳田国男と親交があり、民謡の伝搬ルートの解明を研究した
 5、邦楽を五線譜に乗せた




    歌(民謡)が日本人の生活の中でどう使われているのか?
    町田嘉章はただ単に各地の民謡を採取するのではなく
    生活の背景まで写し取ろうとした
    物質的な豊かさの中で多くは消えた民謡
    日本人は心の美しさや感性を失って行く



 町田佳聲 名前へのこだわり ・・・佳聲の聲は声ではない

   ネット時代に町田佳聲(嘉章)を検索するのに、町田佳聲 町田嘉章のどちらなのか?
  氏が業績を残した時期からして町田嘉章が多い、町田佳聲は晩年と没後に多く使用される
  又、佳聲の聲は声ではない
  地元伊勢崎では町田佳聲と書くが全国的なビックデータでは町田嘉章が一般的
  (伊勢崎市図書館での検索ヒット数 町田佳聲 2件、町田嘉章 18件)

  

 町田佳聲(嘉章)ゆかりの地・・・聖地巡礼 

 伊勢崎の生家

 所在地:群馬県伊勢崎市三光町3-2

  町田嘉章の生家は伊勢崎郵便局の交差点(本町一丁目)の南西の角にあり、建物を外から
 見ることができる 家の中には入れない
 生家の入口には案内(説明)板が立っている





 明治37年3月刊行
「群馬県営業便覧」より

 町田 英 前中時代


























    説明板












     民謡開拓の父
       町田佳聲生誕の地(1888~1981)

   佳聲は、明治21年にこの地で生まれ、民謡との出会いから93歳で亡くなるまでの
  40年あまり、地方の人々に受け継がれてきた全国各地の民謡およそ2万曲の採譜を成
  し遂げた民謡研究家です。
  明治40年に東京美術学校に入学、在学中より三味線を習得し、邦楽に興味を抱きました。
  新聞記者の時代を経て、大正14年に現在のNHKの前身である東京放送局の開局と同時
  に、邦楽の番組編成に携わります。
  その間、北原白秋作詞による伊勢崎の機織り唄「からりこ節」や「伊勢崎小唄」のほか
  静岡県を代表する民謡「ちゃっきり節」などを作曲しました。
  NHKを退社後、昭和12年より柳田国男の影響を受けて全国の民謡の集成を決意し、
  蓄音機を改良した録音機(町田式写音機)を携え民謡採集の旅を始め、昭和38年に九州
  での採集を終えるまで単身で全国を踏破しました。
  約40年にわたる民謡研究の集大成として「日本民謡大観」(全9巻)を昭和55年に
  完成させるなど偉業を成し遂げました。
  伊勢崎市では平成13年の「第16回国民文化祭・ぐんま2001」に際し、本市出身で
  全国的に有名な民謡研究家の町田佳聲の足跡を訪ねて「民謡民舞の祭典」が催されました。
                   平成13年11月
                     伊勢崎市観光物産協会
                        2015.3


 町田佳聲(嘉章)ゆかりの地・・・聖地巡礼

 ちゃっきりぶし民謡碑

 所在地:静岡県静岡市清水区日本平山頂 静岡鉄道日本平パークセンター屋上
     台座の上に縦2.4m、横5.2mの御影石
     右側が北原白秋のブロンズの顔と歌詞、 左側が町田嘉章のブロンズの顔と譜面
 建立日:昭和41年9月18日「ちやっきりぶし」誕生40周年を記念して
     「ちやっきりぶし民謡碑」を建立(当日、嘉章の孫・道彦君の手によって除幕)



 昭和2年に町田嘉章(当時39歳)は
 北原白秋の依頼で
 静岡県民謡「ちゃっきりぶし」を作曲

 *エピソード  昭和2年4月頃 町田嘉章が
  演奏旅行で東海道線に乗ると、北原白秋が
  後の「ちゃつきりぶし」の取材旅行で静岡
  へ向かうところと出会い、その場で作曲の
  依頼を受ける





  *管理人が平成19年(2007年)7月に訪れた際の写真

  「ちゃっきりぶし民謡碑」は北原白秋が昭和17年に57歳で逝去されているために
  町田嘉章が建立碑に揮毫されている






  民謡碑に
  白秋詩
  嘉章曲
 と譜面を町田嘉章が
 揮毫
(きごう 筆をふるう)
































 町田嘉章 年譜

 西暦  和暦 年齢   出来事
 1888  明治21 0   6月8日 佐位郡伊勢崎町字西町(現 伊勢崎市三光町)
荒物醤油渡世の町田賢兵衛(賢平)の次男として生まれる
 名前を英(はなぶさ) 母 タツは常磐津を嗜んだ
 1900 34 12   前橋中学(現 群馬県立前橋高校)入学 修業年限5年
3年までは両毛線で汽車通学
 1902 35  13   兄の浜次、前橋の小林とくと結婚、とくは後に群馬県初の女性
県会議員として活躍
 1904 37  15   前中4年 脚気のため2ヶ月休学、家で三味線を習う
復学後、汽車通学は厳しいので前橋の親戚に下宿し通学
萩原朔太郎と同級になり、同人雑誌「野守」に参画
 1904 38  16   前橋中学雑誌部 部長 町田英(嘉章)、幹事 萩原朔太郎
 1906 39  17   前橋中学卒業 同年の卒業生には萩原朔太郎、森村尭太がいた
 1907 40  20   東京美術学校(現 東京芸術大学美術学部)図按科に入学し
建築設計・装飾関係を志した 同級生には今和次郎がいた
 1908 41  21   結核で1年静養、眼病を患い図按描きを残念する
邦楽を五線譜に乗せる作業を行う
 1913 大正 2  25   時事新報社会部入社 美術記者を担当
 筆名に博三(ひろぞう)を用いる
 1914 3  27   結核再発、時事新報社退職
 1917 6  30   中外商業新報(現 日本経済新聞社)入社
芸能記者を担当
 1920 9  33   宮城道雄らと新日本音楽運動を行う
 1923 12   36  北原白秋の詩に三味線で曲付けの許可を得る
 1925 14  36   中外商業新報を退職、
東京放送局(現 NHK)に入社
邦楽担当の編成局員
7月12日初の民謡番組を制作・放送し好評
 1926 15  37   姓名判断で嘉章(よしあき)に戸籍を変え、
以後これを本名とした
 1927 昭和 2  39   北原白秋の依頼で新民謡「ちゃっきりぶし」を作曲、
 1928 3  40   伊勢崎甲種料理店組合から依頼を受けて
10月に北原白秋と町田嘉章が伊勢崎に来られ
町田伝七別邸に宿泊し新民謡「からりこ節」への想を練り、

11月に完成する
 1929 4  41   作詞 北原白秋 作曲 町田嘉章「からりこ節」東京放送局から放送
 1933 8  45   「伊勢崎小唄」の作曲を町田嘉章に依頼
 1934 9  46   NHKを退社し、民謡一筋に取り組む
 1936 11  48   東京朝日新聞群馬版5月17日 日曜談話室㉕ ふるさとの民謡 
気風がかもしたリズムの強靭さ 語る人町田嘉章氏
 1937 12  49   町田式写音機完成 13kgを背負い 民謡採取で青森へ
 1939 14  51   民俗学者 柳田国男(やなぎた くにお)に直接面会し
民謡取材に対しての指導協力をお願いする
 1940 15  52   柳田国男の後ろ盾で「日本民謡集成」刊行
 1944 19  56   「日本民謡大観」関東編刊行
 1945 20  57   戦災により採取した民謡の資料全てを焼失
志を同じくする友人も戦争で失う
 1948 23  60   民謡の採取を再開する
 1949 24  61    東京芸術大学音楽学部・常勤講師に就任し、日本音楽史を担当
 1951 26  63   ソニー録音機「デンスケ」登場
 1952 27  64   1959年退官。NHK「民謡を訪ねて」のテーマ作曲
 1953 28  65   ラジオ東京(現 TBS)「民謡お国自慢」の解説を担当
テレビ放送が始まりショーとして民謡が放送される
 1956 31  68   紫綬褒章を受賞
 1958 33  70  浅草寺「金龍の舞」を作曲 
伊勢崎市の赤石民謡研究会第1回発表会に町田嘉章賛助出演
 1962 37  74   姓名学者から雅号「佳聲(かしょう)」が贈られ、筆名とする
 1965 40  77   勲四等・旭日小綬章を受章(町田嘉章)
 1966 41  78   4月1日 「ちゃっきりぶし民謡碑」に町田嘉章が譜面を揮毫
9月18日 日本平山頂に民謡碑を建立 町田嘉章の孫 道彦君
 (9歳)の手により除幕(町田嘉章)
 1971 46  83   群馬県前橋市在住の門人 酒井正保(さかい まさやす)
「群馬のわらべうた」を刊行、刊行に寄せてを記す(町田佳聲)
 1972 47  84   群馬県教育委員会編「群馬県郷土民謡集」発行の指導助言
並びに序文を寄せる(町田佳聲)
 1974 49  86   竹内勉(教え子)「民謡に生きる」伝記出版(町田佳聲)
再叙勲 勲三等・瑞宝章を受章(町田嘉章)
 1980 55  92   5月「日本民謡大観」全9巻完結
6月25日 NHKより「日本民謡大観」完結にあたり感謝状
 1981 56  93  吉川英治賞を受賞 (町田佳聲)
9月19日逝去


 町田嘉章が出合った著名人(人脈)

 1、萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)1886(明治19年)~1942(昭和17年)
   前橋市出身の詩人 町田嘉章とは前中(現 群馬県立前橋高等学校)時代の同級生で共に
   雑誌部で活躍し文学や音楽に関心を抱く 萩原朔太郎は北原白秋の詩集「思ひ出」等に
   魅せられ白秋に傾倒する
   口語自由詩を芸術的に完成 詩集「月に吠える」 マンドリン奏者
 2、宮城道雄(みやぎ みちお)1894(明治27年)~1956(昭和31年)
   筝曲家 洋楽に邦楽を融合させ新日本音楽を作曲 17弦を発明 「春の海」で知られる
   日本の音楽の全てが西洋化することに危機感を持つ
 3、北原白秋(きたはら はくしゅう)1885(明治17年)~1942(昭和17年)
   詩人、歌人 萩原朔太郎が詩壇に登場する足がかりとなった
   町田嘉章とコンビで数々の新民謡を制作する
 4、柳田国男(やなぎた くにお)1875(明治8年)~1962(昭和37年)
   民俗学者 「遠野物語」
   町田嘉章は全国各地の民謡収集にあたり柳田国男の人脈を利用し、アドバイスを受けた
   町田嘉章は全国各地の民謡を採取しただ譜面にするだけでなく、生活の背景まで写し撮ろ
   うとした


 からりこ節はちゃっかりん節を改称 
 

 からりこ節(ちゃっかりん節)

 (昭和3年制作)         作詞 北原白秋
                  作曲 町田嘉章
                  振付 花柳徳次(はなやぎ とくじ 女性)

 1.わたしや伊勢崎 機場(はたば)の育ち       *伊勢崎 いせざき とルビ
    チャッカリン チャッカリン
   筬(おさ)のネ とんはた テイホロ テイホロ

   聴き暮らす とんはた 聴き暮らす
   (イヤ カラリコリンリン  チャッカリンノセッセ)


 伊勢崎小唄

  昭和8年の発表
   作詞 西岡水朗(公募  にしおか すいろう) 長崎県出身 民謡詩人 1909~1955
   作曲 町田嘉章

 1.妙義ゃ霞に 浅間は煙り
   春の伊勢崎ゃ花ぐもり
   みどり色増す 華蔵寺辺り

   おさのひびきで 日が昇る
 2.水の思いも せかれりゃ募る
   深くなるみの仇なさけ
   浮名たつ風 団扇でよけて
   渡りゃ噂の 広瀬川
  3.好いた同志の 連取ならば
   忍ぶ笠松君を待つ
   影は二つに 心は一つ
   晴れてあう夜の 月あかり
 4.昔しのべは 赤石便り
   今ぢゃ赤城の風だより
   誰を待つやら 機場の娘
    窓をひねもす 空頼み


 伊勢崎市文化協会(事務局:伊勢崎市経済部文化観光課)所属のメンバーのよる唄や踊りの発表会が定期的に開催され、その中で「伊勢崎小唄」が披露されている

 歌詞を公募し、作曲を町田嘉章に依頼
 伊勢崎の芸妓に「からりこ節」と共に唄、囃子、踊りと継がれ花街(旧緑町)を賑わせた







 町田嘉章の執念で完成した
 2万曲の民謡を採取
「日本民謡大観」全9巻
 は国立国会図書館のHPで一部が閲覧可能
 各地の図書館で閲覧でき
 また、古本屋にて購入可能である


  復刻CDが各社より販売されている










 町田佳聲の門人
 竹内勉(たけうち つとむ 1937~2015)著
 「民謡に生きる」 町田佳聲八十八年の足跡

 昭和49年12月1日発行
 発売元 株式会社ほるぷ
 定価 3,000円

 伊勢崎市図書館にて閲覧可能






 

 酒井正保(さかい まさやす)

    1929~現 在  群馬県在住の町田佳聲の門人
 

  埼玉県に生まれる 日本大学芸術学部音楽学科卒
 町田佳聲の民謡取材に重い録音機を担ぎ同行
 酒井氏が前橋市教育委員会に在職中の昭和46年に
 「群馬のわらべうた」を発行した際に町田佳聲
 推薦文を寄せている

  酒井氏は群馬県の民謡・わらべうた・民話等を
 取材研究し多くの著書を発行されている
  最近(2017年11月)では
  「上州路の民間医療と禁忌の民俗を訪ねて」
 を発行した




 

 横堀恒子(よこぼり つねこ)

    1907~1972  埼玉県児玉郡に生まれる
  本名 ツ子(つね)、渋沢栄一の生家で養育され、豊受村の兄の家に移住
  豊受小、県立桐生女子高卒、昭和4年(1929)に三郷村(現 伊勢崎市波志江町)
  の横堀真太郎と結婚し筆名を横堀恒子とする
  昭和7年(1932) 上毛新聞社・ビクターレコード共催の全国代表民謡で
  第一位に当選、町田嘉章作曲・四家文子唄で「機場むすめ」をレコード発売
  昭和9年(1934) 「機場むすめ」 けふ伊勢崎で上演 (東京朝日新聞群馬版)

  伊勢崎市のホームページ 郷土の人物 に町田佳聲と共に取り上げられている

  機場むすめ    歌詞は管理人による聞き取りのためコピー・転用等は不適

  心乱すな織場のむすめ 乱せば糸さえ切れたがる
  ほんに上毛は機の国 かけた思いに身も細る

  好いた情けか流れた夢か 忍ぶ河原の月見草
  ほんに上州は花の国 月の出潮の恋心

  辛い浮世も忘れて暮らす あれは湯の町湯の煙
  ほんに上州はお湯の国 つづら織りゆく汽車の笛

  架けたつり橋涙に揺れる お国境の紅つつじ
  ほんに上州は山の国 時雨過ぎれば気も晴れる

 

 伊勢崎小唄・からりこ節保存会(会長 加藤義雄)

    伊勢崎市波志江町 上州八木節会館内
    *現在活動はされていない