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「民謡をたずねて」は、私たちの遠い祖先が素朴な生活から生み出した数々の民謡を、地元の民謡も交えながらご紹介する番組 昭和27年1月9日に放送開始し現在に至る
前身は「民謡の時間」(昭和22年11月放送開始)で、昭和25年7月に一旦放送休止ののち、昭和26年5月に「民謡お国めぐり」として復活。さらに昭和27年1月9日の放送より
「民謡をたずねて」に改称された
司会より「民謡は心のふるさと。わたしたちの遠い祖先が素朴な生活の中から生み出した、
豊かな心の表れです。今日もこの懐かしい民謡の数々でおくつろぎ下さい…」のセリフで番組が始まる。
エンディングでは「懐かしい民謡をたずねて」と必ず言っている。
放送開始から現在も使用されているテーマ音楽は、民謡・邦楽研究家で作曲家の町田嘉章の作品で、オープニング曲が「八木節」、エンディング曲が「江差追分(送り)」をモチーフに作曲されており、演奏は邦楽器のみ行われている。
我が家に蓄音器とレコードがあり
レコードの一曲に
「わたしこのごろ変なのよ」があった
母と笑いながらよく歌った記憶がある
町田嘉章を調べていたら、
この曲が彼の作曲と分かった
コミックソングである
ユーチューブ「わたしこのごろ変なのよ」
わたしこのごろ変なのよ
昭和6年(1931年)
作曲:町田嘉章
歌:四家文子(よつや ふみこ)
セリフ(わたしこの頃変なのよ)
1、いつも出ている お月様 丸く大きな お月様
ひとりでじっと 見ていると いつか泣いてる わたしなの
わたしこの頃 変なのよ なんだかなんだか 変なのよ
2、いつも聞こえる 靴の音 表を通る 靴の音
知らない人の 足音に 胸のふるえる わたしなの
わたしこの頃 変なのよ なんだかなんだか 変なのよ
3、いつもやさしい お母さま 仏のような お母さま
母さんの眼が この頃は なんだか怖い わたしなの
わたしこの頃 変なのよ なんだかなんだか 変なのよ
4、可愛い籠の カナリヤに 朝晩あげる 餌さえも
今日この頃は 忘れがち ぼんやり暮らす わたしなの
わたしこの頃 変なのよ なんだかなんだか 変なのよ
全30節有り
唄はちゃっきり節 男は次郎長
花はたちばな 夏はたちばな
茶のかおり
ちゃっきり ちゃっきり
ちゃっきりよ
きゃァるが鳴くんて 雨ずらよ
静岡市日本平山頂「ちゃっきりぶし民謡碑」 作詞の白秋、作曲の町田嘉章のレリーフを
左右に配し、嘉章自筆の譜面を揮毫し白秋自筆の歌詞を銅板にした碑
平成19年7月28日「ちやっきりぶし民謡碑」を訪ねて静岡市日本平山頂へ
町田嘉章が 金龍の舞(きんりゅうのまい)の作曲を担当、生家の前で記念写真
写真提供 故 小杉英雄氏
2000 (平成12年) 生誕112年 没後19年 |
伊勢崎市制施行60周年 いせさきまつり 8月6日(日)17:30~ 浅草寺「金龍の舞」を招待 「金龍の舞」は町田嘉章の作曲 寺舞保存会、浅草芸者の三味線と笛 主管:伊勢崎市経済部商業観光課 |
金龍の舞は故久保田万太郎先生の指導の下に演出吉川義雄、作曲町田嘉章、舞の振付藤間友章 の諸先生が担当
昭和33年(1958)に本堂再建を記念して創られた寺舞でその名は浅草寺の山号「金龍山」に
由来、町田嘉章作曲当時の年齢70歳
浅草観光連盟
神社の石塀(斉藤宮司は玉石と云う)に「町田嘉章」
の芳名が刻まれているのを発見
神社の石塀(玉石)の
南東の角に兄の「町田傳七」の芳名が
縦と横に刻まれている
「町田嘉章」の芳名は神社の北西の位置の在る
昭和53年 町田佳聲90歳
杉原謙治氏は大森の町田佳聲宅を訪問し
「ちゃっきりぶし」誕生秘話等を伺う
杉原謙治氏は
町田佳聲生誕130周年実行委員会
副実行委員長
混声合唱団「コールルーエ」初代団長
尾島小学校 校歌
作詞 北原白秋
作曲 町田嘉章
靄(もや)がたつ 朝は緑の靄(もや)がたつ
そよげ 桑の葉 プラタナス
通え皆 ひびけ跫音(あしおと)たんたんと
小学 小学 わが尾島
山を見よ あれは三山 国の山
開け お窓を この空に
学べ皆 いつも明るく のびのびと
小学 小学 わが尾島
鳴れよ川 水は大利根 砂は玉
鍛え 身體(からだ)も すこやかに
磨け皆 清く正しく 凛々と
小学 小学 わが尾島
昭和八年三月二十二日作詞
昭和十四年三月卒業生有志(172名)
還暦記念事業
昭和六十二年一月吉日建立
島田照賢書
正田肇刻
北原白秋は明養軒に滞在し尾島小唄と尾島小学校校歌を作詞した 尾島小唄と明養軒
上州八木節会 会長 加藤義雄氏(昭和10年生)
氏は八木節以外に町田佳聲作曲の「伊勢崎小唄、からりこ節」
の普及保存に尽力された
2003(平成15年)4月1日 発起人代表 加藤義雄
昭和の初期に作詞、作曲、振付けされ伊勢崎芸妓連によって唄い踊り継がれ一世を風靡したと
聞き、その後社会情勢の変化等により衰退の道を余儀無くたどり、憂い悲しんだ市民数人と最後
の芸妓連にて昭和40年代に「保存会」を結成して振興普及に努力していた頃、上州八木節会有
志にて習い引き継きが出来ればと、保存会長内田千代師他芸妓連に指導して戴いた。会員の切磋
琢磨により昭和52年(26年前)には、群馬県民謡民舞コンクール大会に「伊勢崎小唄」にて
出演、優勝して群馬県知事賞(知事 清水一郎)を戴いた実績もあります。3年前に開催されまし
た第16回国民文化民謡民舞の祭典(伊勢崎市文化会館)には「伊勢崎小唄」の踊りを10名に
て出演致しましたが現在では6名(3組)に減員してしまいましたので、「からりこ節」を共に
一緒に歩んで来た同志と保存会を再結成して振興普及に励みます。
振付け 花柳徳次師
解説・絵図 加藤義雄
踊り協力 加藤和江 渋沢きよ子 大和扶巳子
振付の花柳徳次師は、明治32年、秋田市に生まれる。5歳の時より舞踊の手ほどきを受け、
12歳のとき上京して、六世尾上菊五郎に入門、尾上要の名を許される。15歳で花柳徳太郎に師事、花柳徳次の名を許される。昭和5年徳次から珠実に改名、新舞踊の代表的舞踊家となり、
昭和16年五條流を創設、五條珠実となる。
「からりこ節」は昭和3年の発表であるが、作曲者の町田嘉章先生の紹介により、振付けは
花柳徳次師にて出来る。そして伊勢崎芸者に引き継がれ伊勢崎銘仙と共に繁栄した。
大戦後(大東亜戦争)時代と共に芸者も居なくなり、内田千代が保存会を作り、唄、三味線、踊りと孤軍奮闘、五十嵐聖風、高橋兵衛、石原はな、平岡園子等で継承して居た。
昭和48年、数人の郷土愛の情熱に共鳴して、加藤義雄が世話人となり、「からりこ節」の
踊りを「伊勢崎小唄」と共に 内田千代と伊勢崎市最後の芸者衆に習ったものが「からりこ節」
の踊りとして継承されている。
「伊勢崎銘仙」の機織り唄として、かろやかに、はずむ気持ちで、踊ってください。
梨木小唄(なしぎこうた)
昭和6年(1931年)
作曲:町田嘉章
歌:羽衣歌子(はごろも うたこ)
1、梨木よいとこ 赤城のふもと
雲の中から お湯が湧く
馬でゆくゆく 峠は一里
咲いてうれしい 山つづじ
遠くて近きは 恋の道
梨木湯の里 恋の里
ユーチューブ「梨木小唄」
桐生市黒保根町 梨木温泉の「梨木館」三代目深沢直十郎が西条八十に依頼し
西条八十が現地を訪れ作詞した・・・その後 帝劇で披露された
北原白秋 昭和3年10月29日 「からりこ節」作詞で来伊し宿泊
秩父宮殿下 昭和6年4月10日 宿泊(伊勢崎市史 通史編3 年表・索引)
西町区
区長送迎会
於町田別邸
昭和3年4月
(昭和44年10月発行
西町史誌)