町田佳聲生誕130周年記念事業メモリアル

   町田佳聲(かしょう 本名 嘉章) 伊勢崎に明治21年(1888)6月8日生誕
     町田佳聲生誕130周年実行委員会(平成30年度事業で終了しました)

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         *町田佳聲又は町田嘉章の呼称は原則として出所に基づく


  町田佳聲のルーツ

 商才にたけた町田家、伊勢崎の素封家
 町田家は町田佳聲以外にも多くの人材を輩出した
 町田佳聲を前中、東京美術学校を卒業させ
 不動産を伊勢崎はもとより東京にも数ヶ所を所有し
 佳聲は就職後も国民病と言われる結核の病と闘い続けるが
 生活資金を父の町田賢兵衛と兄の町田浜次が支えた



      家紋 丸に立ち沢瀉(おもだか)




















  町田の苗字はランキングで全国順位303位、群馬県順位41位と群馬県が一番高い、
 また、群馬県内では前橋市に約1,500人、伊勢崎市に約630人在住
  町田佳聲の高祖父 町田忠平治が住んでいた前橋市公田町(くでんまち)には約100人
 が在住する



  公田町は何所?

関越自動車道の高崎ICから
高崎ー駒形線を駒形方面に
向かい利根川にかかる昭和
大橋を渡ると前橋市公田町










  町田忠平治の子、伝右衛門が江戸時代後期(天保年間)に伊勢崎の川岸町(かわぎしまち
 現 三光町の南部地域)に移り荒物雑貨問屋「町田屋」を始めたこれを初代としている
  川岸町は舟運(しゅううん 舟による物資の輸送)で賑わっていた
 江戸方面には年貢米、大豆、薪炭(しんたん)等で、反対に江戸から伊勢崎へは日用雑貨用品
 が主で醤油もあった


   川岸町はどこ?

 昭和42年3月に
 西町、川岸町、宮元町(旧 裏町)が合併し
 三光町となった

 川岸町(かわぎしまち)は江戸時代から
 通称 「かしまち」と呼称
  (地図は昭和15年12月時点)

 舟運(利根川水系)ルート
  伊勢崎河岸(いせさきかし)、広瀬川(利根川 水系左岸、川岸町)より荷積
 明治17年(1884)高崎線が開通し舟運は
 衰退した








  伊勢崎地方では家業を引き継ぐと共に名前を襲名するしきたりが古くから存在し、同じ
 名前が時代を超えて出てくる
  川岸町の武孫平(武孫右衛門)、織物業の下城弥一郎、同じく織物業の下城雄索、また
 金融業の森村堯太は町田佳聲と前中が同級生でもある
  町田商店では店主が「伝七」で、隠居後の名前は「伝七郎」を襲名した






















 町田屋  ご芳名  続柄 生年、没年等   襲 名
   町田忠平治  高祖父  現在の前橋市公田町
(旧 公田村)
 初代  町田傳右ヱ門  曾祖父  文化12年(1815)~
明治2年(1869)5月27日
行年55歳
 二代  町田伝七  祖父  天保10年(1839)~
明治34年(1901)7月15日
 幼名を徳三郎 
初代伝七 初代伝七郎
 三代  町田賢兵衛
 (賢平)
 父  文久2年(1862)~
昭和19年(1944)11月6日
行年83歳
 二代伝七 二代伝七郎
 四代
(九代)
 町田浜次  兄  明治14(1881)~
昭和11年(1936)
行年55歳
 三代伝七 三代伝七郎
 五代
(十代)
 町田一弥  甥  平成3年8月25日没
行年83歳
*明治41年(1908)生?
 
 六代
(十一代)
 町田和憲  従孫  平成27年3月2日没
行年68歳
*昭和22年(1947)生?
 

    *明治3年に旧官名禁止令を政府は発布し、右ヱ門(右衛門)の使用は禁止された
    *四代の四は不吉な数字なのか下記の図書には四代の町田浜次は九代とある
      昭和46年発行 みやま文庫「近代群馬の女性たち」
      昭和57年発行 上毛新聞社「群馬県人名大事典」

 町田屋              
 初 代  町田傳右ヱ門
   文化12年(1815)~
明治2年(1869)5月27日
行年55歳
 ー  とみ   文政元年(1818)~ 
嘉永戌申(1848)10月没
行年31歳 宮崎直之の次女
         ↓      
 二代目  町田伝七
   天保10年(1839)~
明治34年(1901)7月15日
行年63歳
 ー  ゑい    弘化2年(1845)~
明治40年(1907)6月28日没
行年63歳 町田長次郎の長女
         ↓      
 三代目  町田賢兵衛
   文久2年(1862)~
昭和19年(1944)11月6日
行年83歳
 ー  たつ    元治元年(1864)~
大正15年(1926)1月24日没
行年63歳 横山孫七の次女
         ↓      
 四代目  町田浜次
   明治14(1881)~
昭和11年(1936)
行年55歳
 ー  とく    明治20年(1887)1月1日~
昭和25年(1950)5月27日
行年64歳 小林儀平の次女





 明治4年(1871年)の廃藩置県で
 二代目の町田伝七は川岸町から旧陣屋の表門前、
 西町の好立地を購入し荒物雑貨問屋「町田屋」
 を移転した
    ●が移転先(現在地)

 荒物醤油渡世(明治4年戸籍簿による家並より)
 明治26年(1893)に醤油醸造業
 に転じ、明治37年(1904)に合資会社
 平成11年(1999)に閉店する





   屋号  年代  所在地  業種等  備考
 1  町田屋  江戸時代後期(天保年間)  川岸町 荒物雑貨問屋   
 2    明治4年  西町  荒物醤油渡世  
 3    明治26年  〃  醤油醸造業  荒物部門撤退
 4  町田商店  明治37年  〃  合資会社  群馬県営業便覧
 5    平成11年 三光町  廃業  



 町田伝七(まちだ でんしち) 町田佳聲の祖父


 「群馬縣の代表的人物並事業」 大正6年発行 P115 町田傳七氏

 氏は伊勢崎町に醤油の醸造業を営む、県下を通観すれば規模大なるもの他にあるも経営者の人物上より茲に亦論許する価値あるべき思ふものなり、氏の家は天保年間(約八十年前)より醤油の醸造に従ひ、傍ら荒物商を兼ねて広く前橋、高崎地方に顧客を有し居たりしが、氏の家を継ぐに至り経営宜ろしきを得、業務を拡張するに当り兼業を不可とし従来の荒物商を廃し、醤油醸造業専業となれり其造出する所の「山上丸」は仝家の代表的醤油として世の嗜好に投じ頗る好評を得、年一年に発展の歩を進め、其拡張以前は一ヶ年に醤油四五百石、味噌一千二三百貫を産すに過ぎざりしもの、今や優に六七萬円の高額を産するに至り其販路は県下は勿論遠く千葉栃木地方に及び大に其名を馳せ、寡ては、一府十四県連合共進会其他展覧会、博覧会、品表会等に於て賞を得たる事一再ならざりき而して今日の隆盛を成すに至れり、伊勢崎町会議員として名望あり、先は伊勢崎銀行設立に当りては多大の斡旋を客まず現に取締役にして劇場大盛座の座主たり、性温厚篤實にして信望厚く趣味は盆栽を賞し庭園に親しむ氏して書画を好むと云ふ、氏が今日の繁盛は當に、其営業振りの宜しきを得たるのみならず、正實以て事に臨むの人なりしに依るものにして公共事業にも功あり町政にも輿つて力あり、

 *管理人による未熟な解読のため誤字等有り転記使用には不適



 伊勢崎銀行 明治21年(1888)9月創立
    役員の顔ぶれ
     小暮英三郎、森村堯太、中澤豊七、町田傳七郎、羽尾勘七、下山求平、星野源左衛門
     本間千代吉、石原清助、森村鍋太、日野原英一

 大盛座創立 大衆娯楽場 活動写真上映 場所は西町 明治29年(1896)1月創立
    役員の顔ぶれ
     町田傳七郎、星野清次郎、長島広吉、近藤治吉、中条巳之吉


 町田浜次(まちだ はまじ)




 

 町田とく(まちだ とく)


 町田佳聲の義姉(兄 町田浜次の妻)
 明治20年(1887)1月1日~
         昭和25年(1950)5月27日
 
 現 前橋市住吉町出身 明治35年(1902)兄の町田浜次と 15歳で結婚

 群馬県初の女性県議会議員 小説好きで、その影響から町田佳 聲が小説を読みだし、文学雑誌の挿絵に興味を抱いた






 

 町田徳之助(まちだ とくのすけ)





 仏文学者
 町田佳聲の甥
 父 町田浜次と母 とく の三男
 大正9年(1920)~平成16年(2004)
 昭和13年(1938)に旧制 前中卒後、
 早稲田大学大学院で仏文学を専攻
 昭和33年(1958)早稲田大学教授に就任
 主な著書「隠蔽の幻惑 ヨーロッパ的知の行方」
「暫定的生としての世界 現代文明のディレンマ」











 町田泰通(まちだ やすみち)

  昭和7年に旧制前中卒後、立教卒 伊勢崎市三光町2-21
  昭和31年2月 社団法人日本経営士会 経営士(財務部門)登録