君譚英敬 通禰熊蔵 琥藍如 上毛佐位郡上武士村人 父譚英保 母小林氏 家世業染 幼時従游吉見俊庵 及長
設伊勢崎染色講習所 孜々講究染法 後用新町紡績所製絲爲緯 一新伊勢崎縞 面目 大博世
會内務省所聘蘭人于客舎 談偶及泰西染法 君聞其説豁然有所大悟 乃就以講 染法 十九年與同志相議 創設日本織物會社 君爲監査役 二十二年剏
輸之海外 二十四年與郷
而圖電燈供給之用與田畝濯漑之利 然時未到中道而
乃鎖韓國廛 三十年八月罹疾 荏苒彌留終不起 實是歳九月五日也 距其生嘉 永三年七月四日 享年四十有八 娶伊與久氏 擧五男四女 君爲人 卓犖不覊 其與人交也 胸中不設城府 訓誡子弟懇到剴 切未嘗見慍色 可以知其爲人矣 余與君有舊 郷人請文 乃序而係以 銘曰
伊勢崎縞 世稱絶特 年々所産 其麗不億
業精于勤 實賴君力 名存史乘 後人稱徳
正七位 近藤富壽 書
沼田藤三郎 刻
注1 黒字で記した部分は碑銘の全文をほぼ和訳している
注2 赤字で記した部分は他の文献と整合性が無いか 不明の部分
注3 青字で記した部分は他の文献より引用
年 代 | できごと |
嘉永 3年 1850 (誕 生) |
森村富蔵・ていの長男として7月4日生 名は英敬 号は藍如 佐位郡上武士村(現 伊勢崎市上武士)に生れる家業は染色業 子供の頃、吉見俊庵の塾で学ぶ 成長し家業に従事する |
明治 元年 1868 (18歳) |
森村熊蔵は藍染の藍を購入に 武州(現在の東京都、埼玉県)に行き来し、 内務省の招いた和蘭(オランダ)人デレーキ氏と旅館で会い、話が西洋の染色法 に及ぶ その説を聞き豁然として大いに悟り、就きて化学染色法を研究する |
明治10年 1877 (27歳) |
新町紡績所操業 後に(明治20年の頃)新町紡績所で生産した絹紡糸を緯糸(よこいと)に用 い伊勢崎縞の面目を一新させ大いに世の中の人の賞賛を博した |
明治14年 1881 (31歳) |
染色業に加え織物製造(機屋)を始める 従来の草木染・藍染から西洋の化学染色法を欲する |
明治19年 1886 (36歳) |
伊勢崎染色講習所設立に加わる 日本織物会社設立に加わり監査役となる |
明治22年 1889 (39歳) |
無伸縮の縮緬(ちりめん)を開発し「森村縮緬」と言う 工場を増設し、森村縮緬及び琥珀、 羽二重等の輸出を行う |
明治24年 1891 (41歳) |
地元の人と大間々に渡良瀬川の水を引いて発電所を建設をし、 電気供給と灌漑の利を図ろうとするが中途で廃す 今は完成し先見性が明らかである |
明治25年 1892 (42歳) |
群馬県会議員当選 |
明治26年 1893 (43歳) |
伊勢崎織物業組合組合長に就任するとあるが、逆に絹紡糸の使用問題で 下城弥一郎と対立し組合を脱退し改良織物業組合を136人で設立した 翌年両組合は和解し合併して伊勢崎織物商工組合を設立 一府九県総合共進会(産業振興を目的に参加府県の物産陳列会、染織の 部門がある)の審査委員に就任する |
明治27年 1894 (44歳) |
日清戦争(二十七八年役)が起きると、同業者と一緒に日韓貿易を 始め 店を韓国の京城(ソウル)と仁川(インチョン)に開設する 韓国の服装が変る時で、文(紋様)が無きが高くもてはやされた そこで製織法をこれに応じた これにより伊勢崎織物の名を一時高めた この時、森村熊蔵は京城釜山間の鉄道の急務を主唱し明治30年に成る とあるが、京釜(けいふ)鉄道は森村熊蔵が亡くなった後(明治31年) に渋沢栄一が着工し、明治38年に開業した 森村熊蔵は京釜鉄道の目論みに大三輪長兵衛を引組んだと言われる 日本鉄道と京釜鉄道の創設に貢献したとして渋沢栄一より感謝状を受ける その後日韓貿易は益々盛んになり、更に日清貿易を始めようとするが韓国 事変に会い、国内外に多くの事件で商業不振となり、韓国店を閉鎖する |
明治29年 1896 (46歳) |
伊勢崎織物商工組合組長に就任 |
明治30年 1897 (47歳) |
明治30年8月疾に罹り長引き悪化し 起きることは無く9月5日逝去 享年48歳 |
明治43年 1910 |
頌徳碑建立 伊勢崎縞 世稱絶特 伊勢崎縞 世に特段に優れていると称される |
桐生の買継商佐羽商店に奉公し婿養子となる
欧米に出かけジャガード機等を購入し機械化を図る
明治20年佐羽喜六が多額の資金を出して日本織物㈱を設立し監事に森村熊蔵就任
設立した日本織物㈱は富岡製糸場より広い敷地6万3千平方メートルで渡良瀬川の水を使用した群馬県で最初の水力発電を行い繻子(しゅす)を生産した
明治29年佐羽商店破産
写真は日本織物㈱のタービン跡で、後方は桐生厚生総合病院
森村熊蔵君碑銘(訳文)
枢密顧問官正二位大勲位侯爵
松 方 正 義 篆額