伊勢崎銘仙アーカイブス

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 森村熊蔵物語

   森村熊蔵(もりむら くまぞう)
   嘉永3年(1850)7月4日~明治30年(1897)9月5日 享年48歳
   2024年現在 生誕174年 没後127年





森村熊蔵さんの名前を初めて知る方のため
に氏を紹介すると
「明治時代に伊勢崎で活躍した経済人・政治家」
です
1、伊勢崎産地に絹紡糸と化学染色法を導入し
 安価で色彩の豊かな銘仙を可能にした
2、織機や製法の改良を行い生産性を上げた











 森村熊藏君 碑銘     樞密顧問官正二位大勲位侯爵 松方正義 篆額




 篆額(てんがく)は石碑の先端に位置し
 元総理大臣 松方正義が篆書体(てんしょたい)
 で右から経書(たてがき)で
 「森村熊蔵君碑銘
」と書す












 石碑の先端には篆額
 その下に 右から経書で
 「樞密顧問官正二位大勲位侯爵 松方正義 篆額

 と書かれ、本文となる

 本文の最後には
  撰者名、書家名が書かれ
  一段下がり 石工名が書かれている








                    本  文

  君譚英敬 通禰熊蔵 琥藍如 上毛佐位郡上武士村人 父譚英保 母小林氏  家世業染 幼時従游吉見俊庵 及長従事家業 明治十四年兼業伊勢崎織物製造 奮法煎草根木皮作汁以染物 君欲代之以泰西舎密染法 十九年與同業胥謀
 設伊勢崎染色講習所 孜々講究染法 後用新町紡績所製絲爲緯 一新伊勢崎縞 面目 大博世
人賞賛 至今俗猶稱伊勢崎縞曰森村云 先是君欲購藍往来武州
 會内務省所聘蘭人于客舎 談偶及泰西染法 君聞其説豁然有所大悟 乃就以講 染法 十九年與同志相議 創設日本織物會社 君爲監査役 二十二年剏
製不伸 不縮縐紗 名曰森村縮緬是歳増築工場 盛製森村縞縮緬及琥珀羽二重等 
 輸之海外 二十四年與郷
人建設發電所于 山田郡大聞々町引渡良瀬川之水
 而圖電燈供給之用與田畝濯漑之利 然時未到中道而癈 今也乃成 何其見之明 哉 二十五年爲縣會議員明年爲伊勢崎織物業組合長 是歳爲一府九縣聯合共進 會審査委員 二十七八年役之起也 君與同志相謀 始日韓貿易 設廛于京城于 仁川 時韓國衣服之制一變 崇
尚無文 乃督工製成以應之 於是伊勢崎織物之 名高于一時 是時君主唱京城釜山間鐵路之爲急務 至三十年而成 後日韓貿易 日益盛大 君又欲更始日清貿易 時適會韓國事變 中外多故 商業爲不振
 乃鎖韓國廛 三十年八月罹疾 荏苒彌留終不起 實是歳九月五日也 距其生嘉 永三年七月四日 享年四十有八 娶伊與久氏
 擧五男四女 君爲人 卓犖不覊  其與人交也 胸中不設城府 訓誡子弟懇到剴 切未嘗見慍色 可以知其爲人矣 余與君有舊 郷人請文 乃序而係以 銘曰

          伊勢崎縞 世稱絶特 年々所産 其麗不億
           業精于勤 實賴君力 名存史乘 後人稱徳

     明治四十三年九月    樞密顧問官正三位大勲一等子爵 金子堅太郎 撰
                             正七位  近藤富壽 書
                                    沼田藤三郎 刻



 

 森村熊蔵 漢文碑の構成

1、森村熊蔵の頌徳碑(しょうとくひ) 森村熊蔵の業績をほめたたえる碑
1、所在地 伊勢崎市曲輪町31-1 伊勢崎織物協同組合敷地 北西に在り
      南向きが森村熊蔵、東向きが下城弥一郎の石碑
1、建立年 明治43年(1910)9月に建立
1、建立者 伊勢崎織物同業組合
1、建碑費用 約2,135円(2碑及び式典の合計費用 内組合員寄付1,682円)
1、除幕式 伊勢崎織物同業組合創設30周年の事業 明治44年6月18日
1、サイズ 経(たて):尖頭(せんとう)より臺石(だいいし)迄12尺5寸
      緯(よこ):5尺  厚さ:7寸
1、篆額(てんがく)とは 名が知れている著名(ちょめい)な方に書いてもらう表題部
      石碑に篆書体(てんしょたい)で大きく書かれる
     「森村熊藏君碑銘 樞密顧問官正二位大勲位侯爵 松方正義が篆額を書く
   
*松方正義は2度内閣総理大臣を務める(明治24年~25年、明治29年~31年)
1、撰者 石碑の文章(本文)を考えて推敲(すいこう)し言葉を選んで作った人、名前の後に
     「撰」と書く 樞密顧問官正三位大勲一等子爵 金子堅太郎 撰

   *金子堅太郎はハーバード大学卒、日本大学初代校長、農商務大臣を務める
1、
書家 金子堅太郎の文章(本文)を書家が清書した  正七位 近藤富壽 書
   *近藤富壽  号は雪竹(せっちく)
1、石工 沼田藤三郎 が手彫りした 沼田藤三郎 刻
1、文化財 伊勢崎市指定重要文化財 指定日:昭和42年2月15日
1、保存状態 平成16年の新潟県中越地震等により石碑が少し傾く、伊勢崎織物協同組合
       が修復工事を行う、その後の平成23年の東日大震災に於いては影響無い
       110年経過するが碑文の原文の判読は可能な状態である


 碑銘を基に時系列(時代順)に年表を作成

   注1 黒字で記した部分は碑銘の全文をほぼ和訳している
   注2 赤字で記した部分は他の文献と整合性が無いか 不明の部分
   注3 青字で記した部分は他の文献より引用

 年 代 できごと
 嘉永 3年
1850
(誕 生)
 森村富蔵・ていの長男として7月4日生
名は英敬 号は藍如
佐位郡上武士村(現 伊勢崎市上武士)に生れる家業は染色業
子供の頃、吉見俊庵の塾で学ぶ 成長し家業に従事する
 明治 元年
1868
(18歳)
森村熊蔵は藍染の藍を購入に 武州(現在の東京都、埼玉県)に行き来し、
内務省の招いた和蘭(オランダ)人デレーキ氏と旅館で会い、話が西洋の染色法
に及ぶ その説を聞き豁然として大いに悟り、就きて化学染色法を研究する
明治10年
1877
(27歳)
 新町紡績所操業
後に(明治20年の頃)新町紡績所で生産した絹紡糸を緯糸(よこいと)に用
い伊勢崎縞の面目を一新させ大いに世の中の人の賞賛を博した
 明治14年
1881
(31歳)
 染色業に加え織物製造(機屋)を始める
従来の草木染・藍染から西洋の化学染色法を欲する
 明治19年
1886
(36歳)
伊勢崎染色講習所設立に加わる
日本織物会社設立に加わり監査役となる
明治22年
1889
(39歳) 
 無伸縮の縮緬(ちりめん)を開発し「森村縮緬」と言う
工場を増設し、森村縮緬及び琥珀、 羽二重等の輸出を行う
明治24年
1891
(41歳) 
 地元の人と大間々に渡良瀬川の水を引いて発電所を建設をし、
電気供給と灌漑の利を図ろうとするが中途で廃す
今は完成し先見性が明らかである
 明治25年
1892
(42歳)
 群馬県会議員当選
明治26年
1893
(43歳) 
 伊勢崎織物業組合組合長に就任するとあるが、逆に絹紡糸の使用問題で
下城弥一郎と対立し組合を脱退し改良織物業組合を136人で設立した

翌年両組合は和解し合併して伊勢崎織物商工組合を設立
一府九県総合共進会(産業振興を目的に参加府県の物産陳列会、染織の
部門がある)の審査委員に就任する
 明治27年
1894
(44歳)
 日清戦争(二十七八年役)が起きると、同業者と一緒に日韓貿易を
始め 店を韓国の京城(ソウル)と仁川(インチョン)に開設する
韓国の服装が変る時で、文(紋様)が無きが高くもてはやされた
そこで製織法をこれに応じた これにより伊勢崎織物の名を一時高めた
この時、森村熊蔵は京城釜山間の鉄道の急務を主唱し明治30年に成る
とあるが、
京釜(けいふ)鉄道は森村熊蔵が亡くなった後(明治31年)
に渋沢栄一が着工し、明治38年に開業した
森村熊蔵は京釜鉄道の目論みに大三輪長兵衛を引組んだと言われる
日本鉄道と京釜鉄道の創設に貢献したとして渋沢栄一より感謝状を受ける
その後日韓貿易は益々盛んになり、更に日清貿易を始めようとするが韓国
事変に会い、国内外に多くの事件で商業不振となり、韓国店を閉鎖する

 明治29年
1896
(46歳)
 伊勢崎織物商工組合組長に就任
 明治30年
1897
(47歳)
 明治30年8月疾に罹り長引き悪化し
起きることは無く9月5日逝去 享年48歳
明治43年
1910 
 頌徳碑建立

伊勢崎縞 世稱絶特  伊勢崎縞 世に特段に優れていると称される
年々所産 其麗不億
  年々生産し この数は甚だ多き
業精于勤 實賴君力  業は勤るに精し 実に君の力に頼る
存史乘 後人稱徳
  名は歴史の記録に残り 後世の人が徳を称える




 森村熊蔵の人脈

  佐羽喜六(さば きろく)1858年~1900年

桐生の買継商佐羽商店に奉公し婿養子となる
欧米に出かけジャガード機等を購入し機械化を図る
明治20年佐羽喜六が多額の資金を出して日本織物㈱を設立し監事に森村熊蔵就任
設立した日本織物㈱は富岡製糸場より広い敷地6万3千平方メートルで渡良瀬川の水を使用した群馬県で最初の水力発電を行い繻子(しゅす)を生産した
明治29年佐羽商店破産




 写真は日本織物㈱のタービン跡で、後方は桐生厚生総合病院 



  大三輪長兵衛(おおみわ ちょうべい)1835年~1908年






九州黒田藩に生まれる 実業家、政治家
大阪に出て海運業、問屋で成功する
明治11年(1878)第五十八国立銀行を設立
明治24年(1891)韓国政府の招きに応じ朝鮮貨幣制度
改革のため渡韓、京釜鉄道の設立発起人を務める
明治31年(1898)衆議院議員当選。

森村熊蔵は大三輪長兵衛を京釜鉄道敷設に引き込ん
だとされる






 大三輪長兵衛の生涯 維新の精神に夢かけて
  著者 葦津泰國 発行 葦津事務所
  書は「衛生斥邪論」にも触れている





 森村熊蔵君碑銘(訳文)
                          枢密顧問官正二位大勲位侯爵
                              松 方 正 義 篆額

君、諱は英敬、通称は熊蔵、号は藍如、上毛佐位郡上武士村の人。父は諱英保、母は小林氏、
家は世染を業とす。幼時、吉見俊庵に従游し、長ずるに及んで家業に従事す。明治十四年、兼ねて伊勢崎織物の製造を業とす。旧法は草根木皮を煎じ汁を作りて以て物を染む。君これに代うるに泰西舎密(西洋化学)の染法を以てせんと欲す。十九年、同業と胥い謀り、伊勢崎染色講習所を設け、孜々(しし 励む)として染法を講究す。後に新町紡績所の製糸を用いて緯(よこいと)と為し、伊勢崎縞の面目を一新して大いに世人の賞賛を博し、今に至るまで俗に猶(なお)伊勢崎縞を称して森村と云う。これに先んじて、君藍を購わんと欲し、武州に往来し、内務省の聘く所の蘭人に客舎に会い、談偶泰西の染法に及ぶ。君その説を聞き、豁然として大いに悟る所有り。乃ち就きて以て染法を講ず。十九年、同志と相い議し、日本織物会社を創設し、君監査役と為る。二十二年、不伸不縮の縐紗(すうさ)を刱製(そうせい)し、名づけて森村縮緬と曰う。この歳、工場を増築し、盛んに森村縞縮緬及び琥珀羽二重等を製して、これを海外に輸す。二十四年、郷人と発電所を山田郡大間々町に建設し、渡良瀬川の水を引きて電灯供給の用と田畝潅漑の利とを図らんとするも、しかるに時未だ到らず、中道にして廃す。今や乃ち成る、何ぞその見の明らかなるかな。二十五年、県会議員と為り、明年、伊勢崎織物業組合長と為る。この歳、
一府九県聯合共進会審査委員と為る。二十七八年、役の起るや、君伺志と相い謀り、日韓貿易を始め、塵(店)を京城に仁川に設く。時に韓国の衣服の制一変して、文無きを崇尚せり。乃ち工を督して製成して以てこれに応ず。ここに於いて伊勢崎織物の名一時に高し。この時、君京城釜山間の鉄路の急務為るを主唱し、三十年に至りて成る。後、日韓貿易日に益盛大なり。君又更に日清貿易を始めんと欲するも、時に適に韓国事変に会し、中外多故にして、商業不振と為り、乃ち韓国店を鎖ざす。三十年八月、疾に罹り、荏苒して弥留り、終に起たず、実にこの歳の九月五日なり。その嘉永三年七月四日に生るるを距ること享年四十有八なり。伊与久氏を娶り、五男四女を挙ぐ。君の人と為り卓犖不覊(たくらくふき 他より優れている)、その人と交るや、胸中に城府を設けず。子弟を訓誠すること懇到剴切(こんとうがいせつ 行き届いた意見)にして、未だ嘗てりの色を見さず。以てその人と為りを知る可し。余君と旧有れば、郷人文を請う。乃ち序して係くるに銘を以てす。曰く、

      伊勢崎縞は、世に絶特と称せらる。
      年年産する所、その麗億のみならず。
      業は勤むるに精し、実に君が力に頼る。
      名は史乗に存し、後人徳を称う。

明治四十三年九月