いよいよ スタート | 渋沢栄一の従兄弟たち | |
安中市に血洗島を再現 | 彰義隊には群馬の関係者が | |
大河ドラマ・ガイド「晴天を衝け」 前編 NHK出版 |
「明治維新はなかった!?」 著者 たみやじゅん 上毛新聞社 |
渋沢栄一 | ||
慶応3年 1867 |
27歳 | 1月 徳川昭武(あきたけ)14歳、兄 徳川慶喜の名代としてパリ万博 に派遣 |
4月1日~10月31日 パリ万博開催 | ||
10月14日 徳川慶喜 大政奉還 | ||
慶応4年 1868 |
28歳 | 1月3日 戊辰戦争始まる(鳥羽・伏見の戦い) |
2月11日 徳川慶喜 新政府に恭順の意を表す | ||
2月23日 渋沢成一郎(喜作) 彰義隊頭取 | ||
5月15日 彰義隊、上野で新政府軍に敗北 | ||
明治元年 | 9月8日 明治天皇即位 | |
明治2年 1869 |
29歳 | 5月18日 戊辰戦争終わる(五稜郭の戦い) |
中ノ家 | 尾高家 | 東ノ家 | ||||
元助=えい | ー | 尾高勝五郎=やえ | ー | 文左衛門 | ー | 宗助 |
| | | | | | 島村の田島家 | |||
渋沢栄一=千代 | ー | 尾高惇忠 | 渋沢喜作=よし | ー | 田島武平=しげ | |
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尾高ゆう |
渋沢栄一(しぶさわ えいいち) 1840~1931 (天保11~昭和6) |
日本資本主義の父と称する |
尾高淳忠(おだか あつただ・ じゅんちゅう) 1830~1901 (天保元~明治34) |
渋沢栄一の義従兄で、且つ妹の千代が渋沢栄一の妻である 尾高塾を開き渋沢栄一に論語を教えた 富岡製糸場の初代所長を務めるが、当時禁止されている秋蚕 飼育を奨励し所長を解任される |
渋沢喜作(しぶさわ きさく) 1838~1912 (天保9~大正元) |
渋沢栄一の従兄、名は成一郎(せいいちろう)明治以降は 喜作と改名 |
尾高ゆう(おだか ゆう) 1860~1923 (万延元~大正12) |
尾高惇忠の娘 官営富岡製糸場の第1号の伝習工女 父の惇忠が工場長を務める官営富岡製糸場の操業にあたり 伝習工女に応募 それに従い多くの子女が志願 |
明治5年 1872 |
20 | 志を立て東京に遊学、渋沢喜作の家に寄宿し、 (細野時敏の妻 和可は渋沢喜作の姉) 尾高淳忠(おだか じゅんちゅう 富岡製糸場の初代場長)に学ぶ |
細野次郎 ほその じろう |
文久2年 大正5年 55歳 |
伊勢崎 | 明治21年 明治35年 衆議院議員 |
華蔵寺公園に石碑在り |
細野時敏 ほその ときとし |
文政5年 明治19年 65歳 |
伊勢崎 | 明治16年 | 農業、穀物商 |
豪額「天真細野次郎君碑」
説明板に工業試験所や工業学校を設立し
染織業の振興を図った
説明版には
昭和63年8月 伊勢崎市
(社)伊勢崎青年会議所創立25周年記念
制作 街づくり市民ゼミナール歴史班
細野次郎(ほその じろう) 政治家
文久2年(1862)8月2日~
大正5年(1916)6月15日 享年55歳
2024年現在 生誕162年 没後108年
伊勢崎町に細野時敏(ときとし)の次男として生まれる
商業講習所、商科大学で学ぶ
明治21年(1888)~明治25年(1892)群馬県会議員
明治35年(1902)~大正 2年(1913)衆議院議員
明治38年(1905) 日比谷焼打事件の指導者
大正 元年(1912) 伊勢崎に上毛撚糸(株)を創設に尽力
コメント:織物組合や工業学校の資料からは細野次郎の名前は出てこないが、
下城弥一郎との関係では名前が出てくる
伊勢崎に金融機関の誘致を切望した下城弥一郎は細野次郎の紹介で
公爵松方正義に会い、安田善次郎に群馬商業銀行を設立させたとある
明治24年3月23日
伊勢崎織物業組合に事務所完成
正門に御影石(みかげいし)の
門柱が4本建設されていた
門柱の1本が組合敷地内に保管されている
高さ 2m93cm
横幅 46cm
厚さ 45cm
寄贈者 細野次郎君 と彫られている
門柱の台座部分
高さ 68cm
横幅 54cm
厚さ 45cm
白水楼は昭和32年に廃業し映画館になる。
建物の一部を
「財団法人 東本町つくし会館」の建物の一部
に使用されている
「財団法人 東本町つくし会館」
東本町公民館
伊勢崎市東本町96-24
電話0270-25-0079
津久井義一郎(織物染色加工業)が寄贈した
もので、
昭和37年2月着工、昭和38年10月落成
2階への階段や欄間に使用されている
佐藤藤三郎 明治12年(1879)~昭和19年(1944)享年65歳
地元画家の金井烏洲(かない うじゅう)小室翠雲(こむろ すいうん)等のコレクターで、
森村酉三の支援者(パトロン)
題字 子爵 渋沢栄一閣下 陸軍中将 佐藤鋼次郎閣下
男爵 石黒忠悳閣下 第百銀行頭取 池田謙三先生
佐藤藤三郎著
「戦後経済界に於ける不安時代」
大正10年(1921)3月印刷 42歳の時に発行
編集人兼発行人
群馬県佐波郡伊勢崎町字栄町522番地
佐藤藤三郎
題字 子爵 渋沢栄一閣下
大正辛酉(10年 西暦1921)3月
青淵(せいえん 渋沢栄一の雅号)逸人(いつじん 雅号に下に添える語)
人の道に外れた言葉を口から出すと、相手からも道に外れた言葉を返される。
売り言葉に買い言葉。又、悪銭身に付かず。
言悖而出者
言(げん)悖(もと)りて出ずる者は
道にはずれた言葉を口から出すと
亦悖而入
亦(ま)た悖りて入る
相手からも道に外れた言葉を返される
貨悖而入者
貨(か)悖りて入る者は
道にそむいて手に入れた財貨は
亦悖而出
亦た悖りて出ず
また道にそむいて出て行く
佐藤藤三郎商店の社屋
伊勢崎栄町
3年の年月をかけ大正13年(1923)
1月に完成した
建物は鉄筋コンクリート造二階建
大理石等も使用され豪華に造られている
酉三は1階の噴水装置の鋳物と2階の窓
上にあるブロンズ製草花置物を制作
織姫のステンドグラスは東京美術学校の
教授がデザインした
昭和4年(1929)9月30日 群馬県立工業学校(現 県立伊勢崎工業高等学校)
の講堂の落成を記念して、渋沢栄一揮毫(きごう 書画をかく)の額「克孝」教育勅語
を佐藤藤三郎の息子の佐藤鉄司・佐藤謹二が本校の卒業生で寄贈した
佐藤藤三郎が渋沢栄一に揮毫を依頼したもので、現在も校長室の掲げられている
1907~1972 埼玉県児玉郡に生まれる
本名 ツ子(つね)、渋沢栄一の生家で養育され、豊受村の兄の家に移住
豊受小、県立桐生女子高卒、昭和4年(1929)に三郷村(現 伊勢崎市波志江町)
の横堀真太郎と結婚し筆名を横堀恒子とする
昭和7年(1932) 上毛新聞社・ビクターレコード共催の全国代表民謡で
第一位に当選、町田嘉章作曲・四家文子唄で「機場むすめ」をレコード発売
昭和9年(1934) 「機場むすめ」 けふ伊勢崎で上演 (東京朝日新聞群馬版)
伊勢崎市のホームページ 郷土の人物 に取り上げられている
渋沢栄一関係者の活動(存命)期間グラフ
尾高淳忠 | 1830(天保元年) 1901(明治34年) 享年71歳 |
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渋沢喜作 | 1838(天保9年) 1912(大正元年) 享年74歳 |
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渋沢栄一 | 1840(天保11年) 1931(昭和6年) 享年91歳 |
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石川泰三 | 1853(嘉永6年) 1943(昭和18年) 享年91歳 |
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細野次郎 | 1862(文久2年) 1916(大正5年) 享年55歳 |
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佐藤藤三郎 | 1879(明治12年) 1944(昭和19年) 享年65歳 |
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横堀恒子 | 1907(明治40年) 1972(昭和47年) 享年65歳 |
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