伊勢崎銘仙アーカイブス

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 下城弥一郎物語

   下城弥一郎(しもじょう やいちろう)
   嘉永6年(1853)3月9日~明治38年(1905)12月12日 享年52歳
   2024年現在 生誕171年 没後119年




下城弥一郎さんの名前を初めて知る方のため
に氏を紹介すると
「明治時代に伊勢崎で活躍した経済人・政治家」
です
 
主な功績は
1、伊勢崎太織会社(織物組合の前身)の設立願
 を群馬県令
楫取素彦に提出し許可になりました
2、
太織(後の銘仙)の品質管理を行いました
3、染色講習所を開設し群馬県から設備資金の
 融資を受け私財を担保にあてました







  下城彌一郎君 碑銘  枢密顧問官正二位大勲位侯爵 松方正義 篆額



 篆額(てんがく)は石碑の先端に位置し
 松方正義が篆書体(てんしょたい)にて
 右から経書(たてがき)で
 「下城彌一郎君碑銘
」と書す

 その下に 右から経書で
 「樞密顧問官正二位大勲位侯爵 松方正義 篆額

 と書かれ、本文となる

 本文の最後には
 撰者名、書家名が書かれ
 一段下がり 石工名が書かれている





             本  文

下城君茂美 通称彌一郎 嘉永六年二月生上毛佐位郡下植木邨 幼而穎悟
従長尾一雄修和漢學 従菊池憲
七郎學算數 家世業織 舊藩主酒井公命督機業
聾望冠于一郷 君承父祖業 明治十四年創立伊勢崎太織會
社 明年爲衆所推爲其長 先是染料皆用草根木皮之煎汁 後代以泰西染料 然布帛往々変色 君深憂之巌禁用泰西染料 十八年官開五品共進會于東京 君出京聴技師講説 大有所感焉 乃與同志相謀 新設染色講習所 俾郷人専講染法 遂致今日之盛 君嘗曰同業非協心戮力 則不能致盛目 献議干官 設組合制 時官適布同業組合令 君喜曰 吾事成矣 乃先定佐位那波新田勢多四郡爲組合区 以機業染業賃業三者爲組合員 愛称曰伊勢崎織物同業組合 衆推君爲長 君務戒粗製濫造 業曰益盛  嘗與二三有志倶歴遊諸國 乃知伊勢崎縞聾譽遠不及秩父縞 歸郷後 伊勢崎縞毎一段首尾 織寸餘白絲印記曰 某製長幾丈尺 於是乎 伊勢崎縞名誉頓揚君又謂 欲善布帛 不宜不先善絲縷 乃剏立上毛撚絲會社于富士見邨 
二十三年以後 官開内國勧業博
覧會及間東聯合共進會 毎挙君爲審査員 君憂組合事務所狭隘 欲新作之 乃先捐貲起工 明年三月成 是歳重爲組合長 而任滿再君爲衆所推爲其長 二十五年 官賞君尽瘁于機業而其功甚大 賜緑綬褒章
二十七年爲縣會議員 二十九年創設買継業而航于清國詳察商況 講蚕繭輸入之法又創立染織學校 後請官以爲縣立學校 三十二年君鋭意任日本織物會社之救済 復爲縣會議員 尋爲議長 名聾藉甚 君居地方要職 于茲有年焉 三十三年創立群馬商業銀行而開 東京共資之途 三十八年十二月十二日病歿 娶毛呂彌三郎女擧六男一女 頃者郷人追慕遺徳 欲傅之無窮 余與君有舊 郷人請文 乃序而後係以銘 曰

         爰織爰染  以輸諸州  伊勢崎名 播于遐邇
        郷人建石  請勒丕休  其人雖亡 其名千秋

  
    明治四十三年九月   樞密顧問官正三位大勲一等子爵 金子堅太郎 撰
                            正七位 近藤富壽 書
                                   沼田藤三郎 刻



 下城弥一郎 漢文碑の構成

1、下城彌一郎の頌徳碑(しょうとくひ)下城彌一郎の業績をほめたたえる碑
1、所在地 伊勢崎市曲輪町31-1 伊勢崎織物協同組合敷地 北西に在り
      東向きが下城弥一郎、南向きが森村熊蔵の石碑
1、建立年 明治43年(1910)9月に建立
1、建立者 伊勢崎織物業組合
1、建碑費用 約2,135円(2碑及び式典の合計費用 内組合員寄付1,682円)
1、除幕式 伊勢崎織物業組合創設30周年の事業 明治44年6月18日
1、サイズ 経(たて):尖頭(せんとう)より臺石(だいいし)迄13尺5寸
      緯(よこ):4尺8寸  厚さ:7寸
1、篆額(てんがく)とは 名が知れている著名(ちょめい)な方に書いてもらう表題部
      石碑に篆書体(てんしょたい)で大きく書かれる
     「下城彌一郎君碑銘 樞密顧問官正二位大勲位侯爵 松方正義が篆額を書く
   
*松方正義は2度内閣総理大臣を務める(明治24年~25年、明治29年~31年)
1、撰者 石碑の文章(本文)を考えて推敲(すいこう)し言葉を選んで作った人、名前の後に
     「撰」と書く 樞密顧問官正三位大勲一等子爵 金子堅太郎 撰

   *金子堅太郎はハーバード大学卒、日本大学初代校長、農商務大臣を務める
1、
書家 金子堅太郎の文章(本文)を書家が清書した  正七位 近藤富壽 書
   *近藤富壽  号は雪竹(せっちく)
1、石工 沼田藤三郎 が手彫りした 沼田藤三郎 刻
1、文化財 伊勢崎市指定重要文化財 指定日:昭和42年2月15日
1、保存状態 110年以上を経過するが碑文の原文の判読は可能な状態である




 下城弥一郎年表 

  下城弥一郎(しもじょう やいちろう)
  弥一郎の初代 名は茂実 
  誕生   嘉永6年(1853)3月9日生
佐位郡下植木村(現 伊勢崎市宮前町)
 逝去  明治38年(1905)12月12日享年52歳
 家業  織物業
 学識  長尾一雄に和漢、菊池憲七郎に算数を学ぶ
 政治  明治27年 県会議員 明治32年県会議長
 表彰歴  明治25年緑綬褒章
 織物組合
役員歴
(組合の名称は変わるが同じ構成員 )
明治14年伊勢崎太織会社 取締
明治15年伊勢崎太織会社 社長
明治20年伊勢崎織物業組合 組長
明治30年伊勢崎織物商工組合 組長
明治31年伊勢崎織物同業組合 組長
明治36年伊勢崎織物同業組合 組長
 功績
織物関係
 ○明治14年2月
 伊勢崎太織会社の設立
○明治18年10月
 伊勢崎太織の染色規則を作成する
○明治19年6月
 六斎市から独立した太織、生糸、繭の取引目的の市場を開設
○明治19年9月
 染色講習所の開設、群馬県から設備資金700円の融資を受け私財を担保
 にあてた
○明治24年3月
 織物組合事務所及び講習所を新築
○明治29年11月
 下城支店買継部を曲輪町に開く
功績
その他 
 ○明治20年5月
 前橋の第三十九国立銀行の出張所を伊勢崎に開設させる
○明治21年5月
 南勢多郡原之郷に上毛撚糸会社を設立し社長に就任
○明治33年6月
 人脈を生かし安田財閥の安田善次郎からの出資で株式会社群馬商業銀行
 の設立を果たした
 経営の
危機
 明治34年2月
 買継部の金融行き詰りと織物価格の低下 政治への資金の流れ等が要因
 この負債は放棄せず 次の代までに渡り明治43年までの10年で完済した



 下城弥一郎の伝記本




郷土人物叢書②「下城弥一郎」
昭和52年3月 伊勢崎郷土文化協会発行
著者 橋田友治(はしだともじ)

伊勢崎郷土文化協会の事業として伊勢崎町の
功労者3名(石川泰三町長、産業界の下城弥一郎、文化畑の吉沢惟雄)の伝記を発行した

下城弥一郎本人の学識も然る事ながらし、子孫
にあたる方々の協力もあり完成した

当図書は非売品で有るが
伊勢崎市図書館で貸出閲覧可能






 

 下城弥一郎の足跡を訪ねて 桐生市へ




 2014年11月13日に桐生の織物工場見学会
に参加、有鄰館(ゆうりんかん)新館で
イベント「白瀧姫、再演。」が開催していた
 白瀧姫は明治20年に設立された日本織物㈱の代表
佐羽喜六が同社の「織姫繻子(おりひめしゅす)」
を宣伝するために作成した
 イベント会場では白瀧姫の生人形の脇に日本織物㈱
の株券が数点掲げられていた 株券の中央上部には
「白瀧姫」のロゴが描かれている




  株券の発行日は明治32年7月15日とある
   創業者の佐羽喜六は明治29年に佐羽商店は破産している
   また、森村熊蔵は明治30年に他界している

  株券の発行者名に3名が記載されている
   取締役会長 渡辺洪基       東京大学初代総長、工学院大学創立者
   専務取締役 下城弥一郎      明治30年2月専務取締役に選任される
   取締役   大村彦太郎(10代) 白木屋社長



 下城弥一郎に関する研究

  図書としては下記の4冊に詳しく述べられている
 1、「下城家家譜」 下城一郎著 1973
 2、「下城弥一郎」
     橋田友治著 伊勢崎郷土文化協会 1977
 3、「伊勢崎歴史散歩」
     橋田友治外著 伊勢崎郷土文化協会 1984
 4、「地域経済の形成と発展の原理 伊勢崎織物業史における資本原理と地域原理」
     松嵜久実著 CAP出版 2001


  

 家系概略


  下城弥一郎(茂実)は妻つねとの間に6男1女をもうける

   長男 下城平馬は父 下城弥一郎が設立した染色講習所の第1回入所者となり、二代目の
      下城弥一郎を襲名する
   次男 下城好雄は明治29年に下城支店買継部を開設し責任者に就任する
   三男 下城三郎は弥三郎と改名し徳江製糸場を継ぐ
   四男 下城勝麿 三代目弥一郎を襲名(襲名期間 明治39年~昭和3年)
      力織機の設置、工場経営、大正7年(1912)(株)互盟商会を設立






 下城弥一郎のお墓は
 天増寺(てんぞうじ)にある
 (伊勢崎市昭和町1645-1)











 天増寺には
 伊勢崎藩主を慶長6年(1601)~元和2年(1616)
 務めた稲垣長茂(いながき ながしげ)と歴代稲垣家の墓所が
 あり、下城家の墓はその隣りにある









下城弥一郎君碑銘(訳文)
                          枢密顧問官正二位大勲位侯爵
                              松 方 正 義 篆額
下城君茂美 通称弥一郎、嘉永六年二月上毛佐位郡下植木邨(村)に生る。幼にして穎悟
(えいご すぐれている)、長尾一雄に従い和漢の学を修め、菊池憲七郎に従い算数を学ぶ。家は世々織を業とし旧藩主酒井公より機業を督するを命ぜられ、声望一郷に冠たり。君、父祖の業を承け明治十四年伊勢崎太織会社を創立し、明る年衆の推す所と為り其の長と為る。是より先、染料は皆草根木皮の煎汁を用い後に泰西(たいせい 西洋)の染料を以て代える。然るに布帛
(ふはく 織物)々に色を変す。君深く之を憂い泰西染料を用いるを厳禁す。
十八年官五品共進会を東京に開く、君出京し技師の講説を聴きて大いに感ずる所有り焉。
乃ち同志と相謀り、染色講習所を新設し郷人に専ら染法を講じしめ、遂に今日の盛を致せり。
君嘗つて曰はく、同業の協心戮カ(りくりょく 協力)あらざれば則ち盛因を致す能はずと、
官に献議し組合制を設けんとするや時に官、適(たまたま)同業組合令を布く。君喜ぶて曰く、吾事成れり矣と。乃ち先ず佐位、那波、新田、勢多四郡を定めて組合区と為し、機業、染業、賃業の三者を以て組合員と為し、是を称して伊勢崎織物同業組合と曰ふ。衆君を推して長と為す。君務めて粗製濫造を戒め業は日益盛(ひびますます)なり。甞てニ三の有志と倶に諸国を歴遊し、乃ち伊勢崎縞の声誉の秩父縞に遠く及ばざるを知る。帰郷後伊勢崎縞のー段(反)毎に首尾織寸の余白糸に印記して曰く、某製(なにがしせい)、長(丈)幾丈尺と。是に於てか伊勢崎縞の名声頓に掲る。君叉謂ふ善き布帛を欲さば先ず善き絲縷(しろう 糸)ならざる宜からずと。
乃ち上毛撚絲会社を富士見邨(村)に立(創立)す。二十三年以後、官、内国勧業博覧会及
び関東聯合共進を開く毎に、君を挙げて審査員と為す。君組合事務所の狭溢を憂い、新に之を作らんと欲し、先だちて資を損て起エし、明る年三月成る。是の歳(年)重ねて組合長と為る。
而して任満つ。再び君衆の推す所と為り其の長為リ。二十五年、官は君の機業に尽瘁し、而して其功甚大なるを賞し、緑綬褒章を賜う。二十七年県会議員と為る、二十九年買継業を創設す。
而して清国に航し商況を詳察し、蚕繭輸入の法を講ず。又染織学校を創立し、後官に請い県立学校と為す。三十二年君は鋭意日本織物会社の救済に任じ、復た県会議員と為り、尋(つい)で
議長と為る。名声籍甚(めいせいせきじん)なり、君地方の要識に居して茲に年有り。三十三年群馬商業銀行を創立し、而して東京と共資の途を開かんと為す。三十八年十二月十二日病にて歿す。
毛呂弥三郎の女を娶りて男一女を挙ぐ、頃者郷大遺徳を追慕し、之を無窮に伝へんと欲す。余
と君と旧あり、郷人文を請ふ、乃ち序而するに係ることを以てす。銘に曰く

    爰(ここ)に織し爰(ここ)に染し  以て諸州に輸(いた)す
    伊勢崎の名 遐邇(かじ 遠近)に播(ちら)す
    郷人石を建てんと 丕休(ひきゅう)を勒(きざ)まんと請ふ
    其人亡しと雖(いえど)も 其名は千秋たり

 明治四十三年九月