伊勢崎銘仙アーカイブス


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 民 話(伝 説) story1

   馬の親子愛情物語 と 孝女お茂世の殉死 の2話を紹介します。


 馬の親子愛情物語



 碑等の建立場所
   伊勢崎市上植木本町996































  馬の親子愛情物語建立の由来(翻刻)

 昭和十八年(1943年)七月の午後、血と汗にまみれた馬が下植木タンボ(現 東本町)を
 狂った様に北に向かって一目散にかけぬけていきます。此の日朝早く馬主の膳忠作さんは馬を
 連れて四キロ程南方の今泉町の山口さんの田植えの代かきの手伝いに出掛けこの馬には三月
 四日に生まれた栗毛の可愛い子馬がいて、子馬はいつも母馬の後について歩きほゝえましい姿
 を見せていましたが或る日子馬がくぼみにつまづき足に大けがをし親馬としてはそれが心配だ
 ったのか、よその馬の親子よりも本当に深い愛情をそゝいでおりました。山口さんの所へ手伝
 いに行く時、子馬が足を痛めているので、可哀想だからと小屋へ残して出掛けたのでした。
 膳さんは田植えの、作業が終わったので山口さんの家でごちそうになっていると、庭の木につ
 ながれていた親馬の乳がひびいてきて、残して来た子馬の事が心配になり乳をくれなければと
 思いつめた親馬は、つながれた綱を切って裏の道へ飛び出し、道に出ると東武線の踏切りです
 そこを渡ろうとした矢先に運悪く列車が走って来て馬の代鞍が引掛けられしまい勢いよく引き
 づられたのです、馬は全身を打たれて大怪我をしましたが、満身の力をしぼり子馬いとしさに
 我が家の方向へ向かい、夢中で走り続け途中粕川の植木橋の所の桑畑にいた根岸さんが、両手
 を広げて馬をとり押さえました、馬の逃げたのを気付いた膳さんが追いかけて来た時は親馬は
 目を閉じてぐったりと横たわって大変弱っていました。すぐに獣医を呼んで診てもらいました
 獣医は「此のままでは家へ連れて帰るのは無理だが子馬をつれて来て合わせれば元気が出るか
 も知れない」。と言う事で大急ぎで子馬を迎えに行き連れて来た子馬が母馬に声をかけると母
 馬は閉じていた目を大きく開き、子馬とほゝをすり合せて嬉し涙を流し気がついたのです。
 しばらくして親馬が立ち上れる様になり、子馬を先に歩かせその後をついて行く様に仕向け家
 に帰ることにしました。全身の痛さをこらえながら啼き啼き歩く母馬は不自由な片足を引きず
 りながら時々休んでは後の母馬を振り返る子馬親子の目が会うとお互いに長い顔を上下に振っ
 て「大丈夫だよ」と答へる様な仕草をしあって、又一生懸命力をしぼって歩いて行きます。
 天増寺の東の両毛線の踏切りの坂道にさしかゝると親子共、動きをピタリと止めてしまい怖い
 線路がわかるかの様です。膳さんは掛け声をかけながら、しっかり手綱を引張りますがいじ
 らしく手が震えました。これから先は人家の無い淋しい野道です。今少しの辛抱だ、ガンバレ
 ガンバレと声を上げて励ましながらポックリ ポックリと歩いて行くのでした。遠くに浅間山
 の向こうに夕陽が傾いて行きます。膳さん一家が出迎えていました 暗くなっては大変だと
 提灯を持ったり水を持ったりして心配しながら待っていました。こうして みんなに励まされ
 ながらやっとの思いで馬小屋へたどりつきました。母馬の傷の手当てをしたり。お湯で身体を
 拭いてやったり、又 乳を欲しがる子馬に砂糖水をつくって飲ませたりして、やっと落ち付
 いた所で夕飯を済ませてほっとした思いで休みました。夜中を過ぎた頃です。馬小屋で大きな
 音がしたのですぐにかけ寄ると親馬が倒れていました。南向きにつないであった筈なのに北向
 きになって倒れていました。そして間もなく死んだのです。子馬を思う母馬の心情、母親を
 慕う子馬の悲しみ、みんなで大声で泣きました。膳さんは、突然の親子の別れを哀れと思い
 馬頭観世音として奉る事にしました。
  昭和十八年七月六日 供養塔にかすかに読める馬の親子の愛情の出来事と沼田出身の
 林柳波先生の作詞のおうまの歌の碑を建立して、永遠に地域の子供等の教育の場とし、尚
 今は亡き馬の親子の供養にしたく碑を建立することにした次第であります。

          平成元年七月六日
                     建立委員長 柏井作次郎