伊勢崎銘仙アーカイブス


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 民 話(伝 説) story2

   馬の親子愛情物語 と 孝女お茂世の殉死 の2話を紹介します。


   今でも、郵便事業者や運送事業者に語り継がれている伝説
 孝女お茂世の殉死
   孝行な娘、お茂世(もよ)は父親の責任をとり、後追い自殺
  
  享保14年(1729)に飛脚屋 島屋佐七が伊勢崎に店を開いた
  それから、約百年後の天保3年(1832)12月に島屋の宰領(さいりょう 監督)の
 徳江八右衛門 栄清が、運送中の現金を埼玉県桶川で盗難にあった。
  奉行所に訴え、自ら行方を探すが分からない、翌年 天保4年の正月より2月にかけて、
 食事を絶ちて命に換えて高雄山(高尾山)に担い申せども、ききめが無い。
  娘の茂世は父の志を達せざるを深く哀れみて、日毎身を潔めて浅間神社に祈願するが
 しかしながら、そのかいは無く5月9日に殉死した。年は22歳だった。
  其の主に忠なる、其の親に孝なる其の心は賞可きを父も子も其の志を得ざるなむ。
 また、惜しむ可き事なりける。安政2年(1955)5月9日、穂積重胤(ほずみ しげたね)
 ここに誌し伝ふるになも。

         「京都和糸絹問屋中」と「島屋佐右衛門組中」が協同で建碑した。




                        石碑の建立場所
                          伊勢崎市太田町512 南側
                       (現在の石碑は下部が欠落しており
                        一部判読不能)

    孝女茂世之碑

 此方之玉梓乎彼処尓通波世彼処之重荷乎此方尓
 運氏人之労尓代留乎飛脚止云比其飛脚余利文尓
 母物乎母預氐致湏者乎宰領止云米理島屋某之宰
 領尓徳江栄清止云人有利天保三年〇二月其國尓
 上野尓往止桶川駅尓到祁留尓許多之金乎収太留
 荷一箇乎被奪大利祁禮婆公尓毛訴申氐岩根
 凹氐馬爪之至限乎令探索給閇留尓行方更知尓
 由無利祁禮婆同四年正月余利二月尓係氐食乎断
 命尓換氐高雄山尓擔白世抒毛其験無乎其女茂世
 伊父乃志之不達乎深憫氏日毎尓身潔氐浅間神尓
 乞祈都留尓将其詮不有那毛有祁禮婆其五月九日
 尓自身罷尓伎茲年廿二也其主尓忠那流其親尓孝
 那流其心者可賞乎父毛子毛其志乎得邪留那父可
 悩伎事那利祁流安政二年五月九日穂積重胤此乎
 誌傅流尓那母 大竹培書并篆額  宮亀年鐫
     京都和糸絹問屋中
     島屋佐右衛門組中 建
                       









   徳大寺正二位大納言公純卿御詠

   よしや 身はくたけ
    行ともよろつ代□(のヵ)
     道の枝おりとなりに
           けるかな











 (読み、山本廣信氏による)
 此方の玉梓(手紙)を彼処に通はせ、彼処の重荷を此方に運びて、人の
労に代わるを飛脚とい云う。その飛脚より文をも物をも預かりて致す者を
宰領(さいりょう)と云うめり。島屋某の宰領に徳江栄清と言う人あり。
天保3年12月某国に上野に往かんと桶川駅に到りけるに、許多の金を収
めたる荷一箇を奪われたりければ、公(幕府)にも訴え申し出て、岩根凹
めて、馬爪の至ん限りを探索せしめ給えるに、其行方更に知る由無ければ、
同四年正月より二月にかけて、食を断ち命に換えて高雄山に誓い白せども、
其の験なきを其の女茂世、伊父の志の達せざるを深く惘みて、日毎身を潔
めて浅間神社に乞祈つるに将其の詮有らずなも有りけれぱ、其の五月九日
に自ら身罷りにき茲に年二十二也。其の主に忠なる、其の親に孝なる其の
心は賞可きを父も子も其の志を得ざるなむ。また、惜しむ可き事なりける。
安政2年5月9日、穂積重胤ここに誌し伝ふるになも。
                     大竹培書并篆額 宮亀年鐫
                     京都和糸絹問屋中
                              建
                     島屋佐右衛門組中


 伊勢崎市太田町512の南側。元々は太田町薬師鉱泉旅館「金瓶館」の
南、薬師堂参道南側の松の木の下にあったのを昭和38年4月15日に現
在地に移転した。 高さ約1.7メートル。
 安政2年(1855)5月9日、「京都和糸絹問屋中」と「島屋佐右衛
門組中」が協同で建碑した。孝女茂世については碑文にあるように江戸期
に推奨された徳目である。”親孝行”という美談にくるまれている。実際は
どのような事情で自死してしまったのかは不明である。
 しかし、この場合、京都和糸絹問屋と嶋屋佐右衛門組が建碑を実現させ
たという点が重要である。うがった見方かもしれないが、御用を確実に請
け負いたい両組としては孝女茂世の美談を前面に掲げ、業者の製品や荷物
への誠実さ、奉公人の仕事への真摯な態度をPRしたい動機があったとも
考えられる。
 山本廣信氏は「この年の11月に火付盗賊改役の太田半助によって、犯
人が越後で召し捕られた。木島の大谷宗右衛門の書き残した『一代光陰録』
に、『島屋の金子を追落し候盗賊越後へ逃れ去り、手続き相知れ、御取締
役太田半助殿越後へ馳せ向い御召捕なり』とある」と記す。



 出典・参考図書

   関東地方通運史 松田実著 出版者 関東通運協会 昭和39年(1964)

   郵政博物館 研究紀要 第8号 平成29年(2017)
    近世における飛脚関係の金石史料 一常夜灯、道標、墓誌を中心にー

   伊勢崎市史 通史編2 付録 年表・索引 P29
    安政2年(1855)9月 建碑願いの提出