伊勢崎銘仙アーカイブス

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組合設立

 愛染明王(あいぜんみょうおう)


   愛染明王のご縁日(普段の日よりご利益のある日)は毎月26日である
  染色業者は染色工場に愛染明王の掛軸を掲げ主人と職人は灯明を上げた
   また、染色業者は地域の染色組合の支部長の家に集まり愛染明王様に灯明を上げ
  アンピン餅を食べ酒宴を挙げ、時には機屋に対して染め賃の値上げ等を相談した


  愛染(あいぜん)と藍染(あいぞめ)似ている言葉である
 このことから、染色業者が愛染明王を信仰した(している)
  伊勢崎産地以外の織物・染物産地でも同様である

  愛染明王は全身赤色、三目六臂(さんもくろっぴ  三つ目で
 六本の腕を持つ) 愛欲や煩悩がそのまま悟りであることを表
 す明王

  藍染を主とした植物染料(現 草木染)で、藍の発酵に関して
 は温度管理等の高度な熟練を要した

  元機屋の受注増・専門化で分化し、染色業者が生れ、後に
 組織化し神仏に祈願する愛染講(愛染明王を参詣する組織)
 が始まった

 *写真の愛染明王の掛軸は平達織物の染色加工場








 JR伊勢崎駅 南東側に昭和42年3月
 まで紺屋町 (こうやまち)が存在し
 大手町一区 に町名変更










 明治10年(1877)
  伊勢崎地方の紺屋(染色業者)は募金で
  愛染堂(神社)を同聚院の境外・南に建立
  した

 明治43年(1910)
  同聚院の境内に移転









 同聚院(どうじゅいん)
 伊勢崎市曲輪町14-5

 境内には最近の地図にも
 「不動堂・愛染堂」が掲載され
 「愛染明王」も合祀されている









 同聚院「不動堂・愛染堂」の現在

 愛染講和讃
「殊に染色願う身は、日夜に信心
 怠らず、願わば採光なほ増さん」












 伊勢崎市境(元町)の 愛染院
 御本尊 愛染明王

 伊勢崎市境461








 先代の住職は群馬県議会議員をされていた
 氏 名 生・没
享年 
 選挙区
住所
 初回県議
就任年
 職業等
 伊久間隆本
いくま りゅうほん
 明治30年
昭和43年
71歳
 境  昭和34年
自由民主党
日本大学法律科中退 
愛染院(あいぜんいん)
住職





 門前の町家
 以前、越塚家には梲(うだつ)が上がって
 いたが、現在は更地である
 左は大野京染店









 戦時下、平和産業は企業合同

 昭和16年(1941)全面的産業統制により、伊勢崎織物同業組合 解散
 染色工場は企業合同により釜数に応じて買い上げられ廃業した
 殖蓮村では28名の染色業者は、小林徳次郎の工場1ヶ所に集約された



 八田織物(茂呂地区)は明治25年頃から
機屋を営んでいたが、大正4年に染色をはじめた
 この煙突は染色工場建造時に建てられたもので
煉瓦造である

(写真 群馬県繊維工業試験場)






 藍染の復活に挑戦



 伊勢崎織物会館の西側駐車場に藍瓶
(あいがめ)が4個置いて有った

 堤悌一氏を中心に「草木染めの研究開発」
 に用いた藍瓶である








 伊勢崎織物工業組合は昭和54年8月に産地中小
企業対策臨時措置法(産地法)の指定を受け新商品・
新技術の開発事業を行った
 その事業の一つが「草木染めの研究開発」で藍染
技術研究会を組織し伝統工芸士の堤悌一氏が伝統的
工芸品伊勢崎絣の藍染めに取り組んだ
 (事業は昭和58年度まで続いた)
氏は藍の産地である徳島まで足を運び、絹での藍染に
成功し素晴らしい成果を収めた







藍染板締絣織作務衣
堤悌一作 昭和60年(1985)

大量生産型の板締は、伊勢崎産地で生産され
無くなり、堤氏の板締の高い技術は「売り絣」
として村山大島産地等からの染色を受注した







   堤 悌一(つつみ ていいち)
     昭和 6年生れ
     昭和24年  群馬県立太田高等学校卒業後、家業の紺屋に従事(三代目)
     昭和56年  国の伝統工芸士に認定される(当初の認定部門は板締絣)
     平成18年秋 瑞宝単光章を叙勲




 引用・参考資料
  伊勢崎織物組合百年史      伊勢崎織物協同組合        1983
  伊勢崎の織物展         群馬県立日本絹の里 上毎印刷   2000
  思い出の記 中里を顧みて    昭和町              2005
























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