伊勢崎銘仙アーカイブス
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 伊勢崎地域別 旧佐波郡 豊受村(とようけむら)



   豊受地区(旧豊受村)の特徴は大絣(括り絣)と併用絣






  伊勢崎絣伝統工芸士で染色(括り絣)部門の資格所有者
 は15名いたが、その内で10名が豊受地区の居住者である

 明治初期は伊勢崎産地の半数を豊受地区で製造していたが
 明治20年茂呂地区(旧茂呂村)に大量生産を可能にした
 板締絣の技法が導入され伊勢崎産地での構成割合が減少

 大正7年、除ケ町(よげちょう)で併用絣が考案される






 豊受地区(旧豊受村)の歴史

  旧佐波郡豊受村は現在の町名では概ね 除ケ町(よげちょう)、大正寺町(だいしょうじ
 ちょう)、富塚町、下道寺町(げどうじちょう)、馬見塚町(まみづかまち)、長沼町、
 上蓮町(かみはすちょう)、下蓮町(しもはすちょう)、国領町、飯島町を言う

  明治22年(1889) 町村制施行により、周辺10村(除ヶ村、大正寺村、富塚村、
 下道寺村、馬見塚村、長沼村、上蓮沼村、下蓮沼村、国領村、東飯島村)が合併し那波郡
 豊受村が成立
  明治29年(1896) 郡統合(佐位郡と那波郡の統合)により佐波郡に属する
  昭和30年(1955) 宮郷村、名和村とともに伊勢崎市へ編入される。

 豊受村郷土誌(明治42年 群馬県訓令により作成)より抜粋

   本村の北より西北部に亘りて機業甚た盛なり。謂ふる伊勢崎織これなり。
 機業戸数 72 
 賃織戸数  485
 職工数(男)  72
  〃 (女)  502
 機台数  502
 産額 (純絹織)  125,308匹
  〃 (絹綿交織)  3,450匹
 価格  1,002,464円


 [付箋]会社及工場票
  其の1 染織会社
   合名会社
会社商号   平籐合名会社
 所在地  豊受村大字大正寺
資本金   8,800円
 生産額  不明
 設立年月日  明治44年2月

  其の2 工場票
工場所在地   豊受村大字大正寺
 代表社員  平田籐次郎
 設立年月日  明治44年12月
 主要物品  絹織物
 生産高  不明
   8,530疋
価86,615円




   明治9年(太織)  構成比  明治42年  構成比
 産地全体 13,084疋 100.0   1,367千反  100.0
 豊受村  5,965疋 45.8  258千反 18.9
 茂呂村  1,415疋 10.8   111千反 8.1



 豊受村のレジェンド(伝説)鈴木マチ

   ここ豊受村では伝説の「鈴木マチ」が江戸時代・弘化4年(1846)に絵を織物に織る
  ことに成功した
   鈴木マチの指導を受けた「養女のトメ」が明治3年(?)名古屋で開催された博覧会
  に大絣を出品し「之を織物にあらず、染物なり」と審査員に言われたとある
  (明治3年の名古屋博覧会とあるが、裏付けがとれない)
  トメの夫 「高木啓次」(豊受村の機屋)の研究により明治15年頃「大絣」が完成し、
  化学染料と絹紡糸の使用で明治28年頃には「大絣の黄金時代」を迎えた
  *大絣とは反物の幅(37cm)に4山以下の大柄の絣


 報繊会結成五十五周年記念碑

 
  昭和62年(1987)除ケ町の平田達男氏が理事長の時代に報繊協同組合の事務所
 建設予定地に建立した
  平田達男氏ご長男が医院長を務める豊受歯科クリニックの脇に建立されている
    (伊勢崎市下道寺町1-1)




碑文
 報繊会結成五十五周年記念碑
  伊勢崎織物
 大絣発祥の地

  伊勢崎市長 下城雄索 書












伊勢崎織物の主要原料糸は, 古くから生糸、玉糸を 使用し、その糸は六十キログラムを一俵として白い綿袋 に入れ、更にアンペラの袋に梱包され、縄掛して取引された。
伊勢崎織物の最盛期の昭和の初期には、約六万俵が消費され、この礎石はその俵を擬している。
又碑の台座は、織物を反物として丸巻した姿を模した。















 














 建碑の由来
伊勢崎太織が 地場産業として元亀元年頃(一五七〇年)には市場で取引されるようになり 明治十一年頃(一八八八年)には一般に伊勢崎銘仙と呼ばれ 全国 的にその声価をたかめ 伊勢崎産地の礎となった
この地 旧佐位郡豊受村も 伊勢崎産地の中心地区にあって 早くも弘化四年頃 (一八四七年)には大絣の技法が開発され その後の先輩各位のたゆまぬ技術、器具の改善、工夫により 明治大正期に降って 伊勢崎銘仙を代表する大絣、併用銘仙として大きく開花し 昭和初期には和装界で一世を風靡するにいたった
この間に 誇りある伝統工芸の振興発展を期して 同志一七二名相集い 大正十年九月(一九二一年)伊勢崎大絣有信会を組織し 今日の報繊会の母体を形成した
その後 幾多の変遷のあと年産高四五五万 反伊勢崎銘仙の黄金時代の昭和五年(一九三〇年) には 加入会員一二〇名により報繊会が新しく誕生した
社会経済界共に混乱を極めた第二次大戦後も 同志協調して見事この苦境を 克服し 昭和四十八年(一九七三年)にこの団体を後世に伝承する目的をもって 三十三名の組合員の同意により 法人組織報繊協同組合として確立するにいたった次第である
一九七〇年代以降の生活用式 社会環境の変化につれて服飾業界の変転も目まぐるしいものがあるが 今ここに往時をしのび 将来を展望するときに 誇あるこの伝統技術の灯を守り 次代への承継の決意を新にするものであります
今回報繊会結成五十五周年の記念すべき秋にあたり 温故知新の古諺にのっとり そのシンボルとしてここに建碑にいたった由来である
本会創立は秋恰も伊勢崎銘仙の最盛期であったが その後昭和の恐慌 戦時 産業統制 七七禁令 第二次世界大戦 戦後の統制経済 銘仙の衰退等激動の中で推移してきたが 歴代会長は卓越した指導力と識見により 会員を育成し全伊勢崎産地の模範とするところであったことは ひとえに各位の御功績の賜であり 深甚なる感謝の意を表するものであります
今ここに輝ける御功績を賛え 後世にその芳名を伝えるため謹んで銘記する
                          昭和六十二年一月吉日
                  報繊協同組合
  初代会長 故平田広一郎
  二代会長 故板垣長吉               理事長  平田達男
  三代会長 故榎原芳松               副理事長 榎原芳武
  三代会長 故小此木茂雄              会計監事 高柳健作
  四代会長 故板垣岩吉               会計監事 渡辺正三郎
  五代会長 故小此木茂雄              理事   板垣泰蔵 
  六代会長  原長次郎               理事   原邦雄
  七代会長 故平田常夫
  八代会長  高柳清松
 建設委員
  高柳忠三  松波立男  榎原文雄  菊地次男
  平田泰三  剣持隆好  吉田芳一  柴崎重一
  高柳利雄  榎原一郎  平田光司
                           境野 治 撰文
                           大貫八生 謹書
                           (有)正田石材店 彫