伊勢崎銘仙アーカイブス

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 森村 堯太(ぎょうた)物語

            名門・森村家

  伊勢崎銘仙や伊勢崎経済の近代(明治~戦前)を調べていると森村堯太の名前が出てくる
 先ず、堯太の名前の読み方が分からない
  尭 旧は堯 で 「ぎょう」と読む 土 が三つ重なり高くなって 「たかい」とも読む
 

発見箇所 富岡製糸場の払い下げに伊勢崎の森村堯太が入札に参加していた

  官営の富岡製糸場は赤字経営のため民間への払い下げが行われた
 



 第1回 明治13年 入札参加者無し

 第2回 明治24年 2者が入札に参加する
     が、予定価格の5万5000円に
     満たなく不調に終わる

 第3回 明治26年 5者が入札に参加
   1、12万1460円
         三井銀行社長 三井高保
   2、10万3170円
         滋賀県 下郷傳平
   3、10万2550円
         長野県 林 国蔵
   4、10万2050円
         長野県 吉澤利八




   5、 7万5202円10銭  群馬県    森村堯太(もりむら ぎょうた)
      予定価格が10万5000円のため最高額の三井銀行の三井高保が落札した
      書籍「生糸改良にかけた生涯 速水堅曹」より



 入札に参加した森村堯太とはどの様な人物でしよう?
  森村堯太(もりむら ぎょうた)初代  文久(1863)~大正12年(1923)




 伊勢崎市連取町の森村姓は
五十嵐清隆伊勢崎市長のルーツの五十嵐姓から
派生している

 森村堯太の本家 「旧森村家住宅」




 旧森村家住宅(伊勢崎市指定重要文化財)は一般公開を行なっている
   伊勢崎市連取町377-1







 伊勢崎市連取町には森村姓は現在40~50軒
存在する
 森村堯太の生家は本家から南南西の笠松近く
で通称「天神の家」と呼ばれた






 連取のマツ(群馬県指定天然記念物)通称「笠松」
  伊勢崎市連取町591



  連取町の森村一族は結束が強く「森村家念祖会」と「鶴円会」を組織し相互扶助等を行って
  いた
  特に「鶴円会」は家紋鶴の丸から名が付き金融面の活動を中心に行っていた

  明治20年(1887) 森村堯太は織物業者相手の金融会社「三星社」を設立
  明治21年(1888) 伊勢崎銘仙活況のため資金需要の増加に応えるために
              「三星社」を基に「伊勢崎銀行」を設立し副頭取に就任
   上毛貯蓄銀行の取締役や群馬県農工銀行にも関わり群馬県金融界のリーダー的
  存在であった
   森村堯太はキリスト教に入信し、共愛学園の創立や県会議員として廃娼運動に尽力
  された

  連取町の森村一族は過去現在において優秀な人材を輩出している
  その中で森村酉三(もりむら とりぞう 明治30年~昭和24年)が挙げられる
   彫金工芸家で海外にも出展、地元では高崎観音山の「白衣大観音」の原型を制作
  したことで知られる



 森村堯太(もりむら ぎょうた)初代
  文久3年(1863)8月15日~
  大正12年(1923)12月10日 享年60歳
  2024年現在 生誕161年 没後101年
  現 伊勢崎市連取町出身(通称 天神の家)
  政治・経済・宗教・教育等多方面で活躍
  県議会議員、廃娼運動、クリスチャン・・・野村藤太の影響



 明治20年(1887)11月 伊勢崎基督教講義所で洗礼を受ける
 明治20年(1887)11月 金融会社 三星社 佐位郡伊勢崎町 伊勢崎太織講習所
 明治21年(1888)10月 伊勢崎銀行 佐位郡伊勢崎町523番地 頭取を歴任
 明治25年(1892) 3月 群馬県会議員に当選(明治28年2月辞職)
 明治26年(1893) 9月 富岡製糸場払下げ入札に参加
 明治29年(1896)    群馬県会議員に当選(明治
 明治30年(1897) 3月 上毛貯蓄銀行(第1次) 前橋市紺屋町34番地 取締役就任
                *大正10年7月 群馬銀行(第1次)に合併
 明治30年(1897) 4月 群馬県会議員に当選 府県制実施(任期 明治32年9月)
 明治31年(1898) 3月 群馬県農工銀行 前橋市本町18番地 取締役就任
                *昭和5年11月 日本勧業銀行に合併
 明治31年(1898) 9月 三十九銀行 監査役就任
                *大正7年10月 群馬銀行(第1次)に合併
 明治41年(1908)12月 利根運河株式会社 取締役後に大正6年12月第五代社長に
                就任
                *昭和16年12月内務省に売却(国有化)

   ****************       *************



森村堯太(もりむら ぎょうた)二代目 本名 良策(りょうさく)

  明治20年(1887)2月17日~
  昭和27年(1952)7月18日  享年65歳
  2024年現在 生誕137年 没後72年
  那波郡連取村(現 伊勢崎市連取町)初代 森村堯太の長男






  明治39年(1906)旧制前橋中学校卒(同級生 萩原朔太郎 町田佳聲)
  明治45年(1912)慶応大学理財科(現 経済学部)卒 東京渡辺銀行に勤務
  大正12年(1923)12月 父 初代森村堯太の逝去により、帰郷し家業を継ぐ
  大正13年(1924)1月 第2代森村堯太を襲名(改名)
  群馬銀行(第1次 昭和初期)頭取




 「基督教ときあかし」 富永徳磨(とみなが とくま)著 
     発行者 森村堯太(良策) 昭和21年10月 発行 
     発行所 伊勢崎市川岸町25 弘文堂 森村書店

  富永徳磨先生の略歴を述べて

  富永先生は明治八年十月十九日大分県に生れ昭和五年十三日に永眠された。其(その)
  五十六年の生涯は完(まった)く神と人とに献げられ、実に明治大正昭和に亙る預言者
  的存在であつた。
  若くして伝道の聖職に就かれ明治三十三年二月より三十五年十二月まで群馬県伊勢崎基
  督教会を牧され
、転じて石川県金沢基督教会に趣き三十九年上京して植村正久先生の富士
  見町を助けられた。
  明治四十年十一月東京本郷區駒込千駄木町に十数名の青年学生と共に駒込基督教会なる
  伝道所を設け独立個人伝道を開始された。尚東京神学社や仏教の諸大学に基督教神学を講じ
  大正十五年には自ら新公同神学院を創立し校長兼教授として努力された。
  先生の著作の多い事は何人も驚かされ然(さ)も其いずれもが力作であって比屋根安定氏の
  日本宗教史の中にも
     富永徳磨氏の著作は当代基督教文学の金字塔であり、日本宗教史上に永く記念さ
     るべき力作で別所、内村、富永、の三人の著作は英文に訳さるゝならば広く外人
     の尊敬を受けるものであらう
  と述べられておる。
  又、先生の豊かなる宗教的哲学的天禀(てんぴん)は造詣(ぞうけい)深き神学と高潔なる
  信仰に培(つち)かはれ其偉大なる感化として日本基督教界の夫々の部門に残され日本宗教
  史に力ある遺産となりつゝある。殊(こと)に先生は非基督教的思想に対し常に堂々の陣を
  張り唯物(ゆいぶつ)主義無神論や享楽的無道義傾向に向って力強き鋭鋒(えいほう)を向
  けられ彼の宗教法案の如きに対しては信教自由束縛の悪法案として強烈なる争闘を続け遂に
  之を葬り去った。
  如斯(かくのごとく)、先生は預言者的存在であり秀でた神学者であったが申すまでもなく
  信仰の人愛の人であった。先生は基督教の信仰に由(よっ)て日本を愛し同胞を愛し同胞の
  魂を愛した。
  敗戦日本に無くてはならぬものは此高潔なる信仰に由て国を愛する人である。換言せば基督
  教の信仰に由て日本を愛し、日本を愛するが故に基督教を信仰すると云ふが如き人である。
  吾が八千萬同胞は富永先生の据(すわ)へられた此礎石(そせき)の上に一日も早く安住の
  日を見出す可(べ)きではあるまいか。略歴を述べ敢(あえ)て一言附加した所以である。
      昭和二十一年十月十五日         発行者 森村堯太
     



 引用・参考資料
  「基督教ときあかし」 富永徳磨著 発行者 森村堯太(良策) 昭和21年10月 発行
  「85年 私の見聞録」 森村知孝著 昭和50年 非売品 伊勢崎市図書館にて閲覧可
  「ぐんま史料研究 第22号」 森村堯太とその生きた時代 石原征明著 平成16年
                 発行:群馬県立文書館
  「私論 上州伊勢崎 五十嵐一族小史」 五十嵐基興著 平成23年 非売品
                 伊勢崎市図書館にて閲覧可
  「鋳金工芸家・森村酉三とその時代」 手島仁著 平成26年 発行:みやま文庫
  「生糸改良にかけた生涯 速水堅曹」 平成26年
            現代語訳 富岡製糸場世界遺産伝道師協会 歴史ワーキンググループ
            代表訳:速水美智子 発行:飯田橋パピルス