桜井忠温:陸軍軍人、作家 日露戦争の旅順包囲戦に参加、その体験を書いた 「肉弾」「銃後」が好評を得た。 肉弾:桜井忠温の戦記「肉弾」による語 |
続柄 | 名前 | ことがら |
父 | 桜井 信之 | 士族 大正2年(1913)逝去 |
母 | カヅ | 明治43年(1910)逝去 |
長兄(長男) | 彦一郎 | 明治5年(1872)生 筆名 桜井鴎村(おうそん) 翻訳家・英文学者 明治39年(1906)弟 忠温の「肉弾」の校正と発行(丁未 出版社)を引受ける 明治41年(1908)新渡戸稲造の英文「武士道」を和訳 津田梅子と女子英学塾設立 昭和4年(1929)逝去56歳 |
本人(三男) | 忠温 | 明治12年(1879)6月11日~昭和40年(1965) 9月17日 享年86歳 |
弟 (五男) | 忠武 | 明治20年(1887)生 海軍中将 昭和20年(1945)3月戦死57歳 |
妹 (次女) | 木村すゑ | 明治27年(1894)生 松山に在住し、兄の忠温や甥の武男 の帰郷先 昭和38年(1963)逝去 69歳 |
先妻 | 森田 千町子 | 明治42年(1909)28歳で逝去 |
長男 | 武男 | 明治41年(1908)生 父 信之の本家を継ぐ、聖カタリナ女子短大助教授 |
後妻 | 森 志つの | 静野 明治44年(1911)2月 結婚 女子英学塾(現 津田塾大学)卒 昭和34年(1959)享年77歳 |
長女 | 渥子 | 明治44年(1911)生 昭和7年(1932)3月 22歳、廣田藤四郎 28歳と結婚 |
長女の夫 | 廣田 藤四郎 | |
孫 | 忠廣 | 昭和8年(1933)生 昭和9年 桜井忠温と養子縁組 昭和35年(1960)桜井忠温と分籍 平成18年(2006)享年72歳 |
年 | 歳 | ことがら |
明治12年 1879 |
0 | 6月11日 桜井信之・カズの三男として生まれる |
明治25年 1892 |
13 | 4月 松山中学校に入学 四条派の絵師 松浦巌暉(がんき)に師事 |
明治28年 1895 |
16 | 4月 夏目漱石 松山中学校に英語教師として赴任 4月 日清戦争 勝利し日清講和条約を締結 |
明治31年 1898 |
19 | 4月 松山中学校5年 |
明治32年 1899 |
20 | 3月 松山中学校卒業 陸軍士官学校を受験、合格発表まで、神戸税関に勤務 12月 陸軍士官学校に合格 松山歩兵二十二連隊に入隊に一年間在籍 師匠 松浦巌暉から破門 |
明治33年 1900 |
21 | 12月 陸軍士官学校(東京)13期入学 器械体操の先生が等々力中尉(妙義山トドロキ岩の由来) |
明治34年 1901 |
22 | 12月 陸軍士官学校 卒業 |
明治35年 1902 |
23 | 6月 少尉 |
明治37年 1904 |
25 | 2月 日露戦争開戦 4月 日露戦争に松山歩兵第二十二連隊の連隊旗手として従軍 5月 遼東半島に出征、乃木将軍の指揮下 旅順攻囲戦 8月 歩兵中尉に昇進(旗手の任務解かれる)小隊長として陣頭 8月23日 大連から担架で香川県善通寺まで運ばれ1年余の入院療養 |
明治38年 1905 |
26 | 5月28日 日本海開戦 勝利 6月 松山歩兵第二十二連隊に中隊長として原隊復帰 8月 新設の陸軍経理学校(東京)の生徒隊長を命じられる 9月 日露戦争 勝利しポーツマツ条約成立 |
明治39年 1906 |
27 | 4月 森田千町子(25歳)と結婚 4月25日 「肉弾」を丁未出版社より発行 6月25日 明治天皇拝謁(肉弾を天覧」 |
明治41年 1908 |
29 | 3月 長兄 彦一郎(鴎村)新渡戸稲造の英文「武士道」を和訳 丁未出版社より発行 6月 長男 武男誕生 |
明治42年 1909 |
30 | 6月 妻 千町子(28歳)逝去 |
明治43年 1910 |
31 | 10月12日 母 カズ 逝去 |
明治44年 1911 |
32 | 2月15日 森静野(しづの)と再婚 11月5日 長女 渥子(あつこ)誕生 |
明治45年 1912 |
33 | 7月 明治天皇 崩御 乃木希典(のぎ まれすけ)妻 静子と殉死 |
大正 2年 1913 |
34 | 3月 田中儀一(たなか ぎいち 後の陸軍大将)から執筆再開を薦め られ 第2作「銃後」を出版 8月6日 父 信之 逝去 |
大正13年 1924 |
45 | 陸軍省新聞班長(以降 昭和5年までの7ヶ年間 新聞班に所属) |
昭和 2年 1927 |
48 | 11月 日活映画「赤城の夕映え」原作・脚本 |
昭和 3年 1928 |
49 | 休暇を利用し、かっての戦場をたずね「草に祈る」を朝日新聞に掲載 |
昭和 4年 1929 |
50 | 2月27日 兄 彦一郎 逝去 |
昭和 5年 1930 |
51 | 8月1日 少将に進級待命(予備役) 退役執筆に専念 |
昭和 6年 1931 |
52 | 3月 武者小路実篤 主宰「砧人会(ちんじんかい)」参画 3月5日 誠文堂から「桜井忠温画集」を発行 砧村閑居 9月18日 満州事変、読売新聞の正力松太郎より従軍を依頼される |
昭和 7年 1932 |
53 | 3月10日 長女 渥子 廣田藤四郎と結婚 5月14日 チャップリン来日 暗殺計画を桜井忠温の助言で回避 (チャップリン来日最初に皇居を拝む) 5月15日 犬養毅首相暗殺 9月14日 誠文堂が桜井忠温《肉弾》の出版につき 《桜井忠温全集》の検印紙を流用して訴えられた事件、 正力松太郎らの調停により円満解決。 |
昭和 8年 1933 |
54 | 3月22日 孫 廣忠 誕生 9月桜井忠温が「鉛と血」を発行した際に武者小路が本の装幀を行った 武蔵野郊外 落葉村舎 |
昭和 9年 1934 |
55 | 1月9日 孫 廣忠夫と養子縁組 |
昭和20年 1945 |
66 | 8月15日 終戦 |
昭和22年 1947 |
68 | 公職追放戦犯 |
昭和27年 1952 |
73 | 2月14日 公職追放解除 |
昭和28年 1953 |
74 | 1月 軍人恩給復活 |
昭和32年 1957 |
78 | 10月5日 大島松太郎の企画で桜井忠温の講演会を倉賀野小学校で 開催する 12月 文芸春秋新社から「哀しきものの記録」を発行 |
昭和33年 1958 |
79 | 3月5日 桜井忠温から群馬県倉賀野町の大島松太郎を通じて 父(金光)へ女中を探して欲しい旨の手紙が届く |
昭和34年 1959 |
80 | 2月9日 妻 静野 逝去(77歳) 6月 故郷の愛媛県松山市に帰る |
昭和35年 1960 |
81 | 1月 長男 桜井武男が松山市山越に新築住居を「落葉村舎」と名付け 長男夫婦と同居 |
昭和36年 1961 |
82 | 5月25日 父(金光)へ桜井忠温から近況を伝える手紙が届く |
昭和37年 1962 |
83 | 5月~7月 愛媛新聞 夏目漱石「坊ちゃん」を掲載 桜井忠温が挿絵を担当する 9月24日 「松山坊ちゃん会」設立 初代の名誉会長 |
昭和40年 1965 |
86 | 9月17日 愛媛県松山市一番町菅井病院にて逝去 墓は三ヵ所存在する 松山市三番町 桜井家の菩提寺「正安寺」 東京・多摩墓地 松山市道後 市営鷺谷墓地 |
桜井忠温との関係 | ||
乃木希典 のぎ まれすけ 陸軍大将 第10代学習院長 |
嘉永2年 1849 ~ 大正元年 1912 (62歳) |
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夏目漱石 なつめ そうせき 小説家 英文学者 教師 |
慶応3年 1867 ~ 大正5年 1916 (49歳) |
松山中学時代 桜井忠温の英語恩師で1年間学ぶ 昭和37年(1962) 5月~7月 愛媛新聞 夏目漱石「坊ちゃん」を掲載 桜井忠温が挿絵を担当する 9月24日 「松山坊ちゃん会」設立 初代の名誉会長 |
橋本園太 はしもと そのた 前橋監獄(刑務所)看守 更生保護施設開設 |
万延元年 1860 ~ 昭和18年 1943 (83歳) |
現 前橋市文京町在住 桜井忠温 原作・脚本の映画「赤城の夕映え」の モデル |
武者小路実篤 むしゃのこうじ さねあつ 作家 画家 |
明治18年 1885 ~ 昭和51年 1976 (90歳) |
武者小路が現 東京成城に「砧人会(ちんじんかい)」 を設立、桜井忠温も参画 昭和8年(1933)に桜井忠温が「鉛と血」を発行 した際に武者小路が本の装幀を行った |
正力松太郎 しょうりき まつたろう 読売新聞社社主 日本テレビ放送網社長 プロ野球の父 衆議院議員 |
明治18年 1885 ~ 昭和44年 1969 (84歳) |
大正13年 読売新聞を買収 昭和6年9月18日 満州事変、読売新聞の正力松太郎 より従軍を依頼される 昭和7年誠文堂が桜井忠温《肉弾》の出版につき 《桜井忠温全集》の検印紙を流用して訴えられた事件、 正力松太郎らの調停により円満解決 読売新聞 拡張のため、各地で講演会を依頼される 戦後、公職追放 軍人恩給停止で生活困窮するが、 正力松太郎が経済的助成を行った |
水野広徳 みずの ひろのり 海軍大佐 軍事評論家 著作家 |
明治8年 1875 ~ 昭和20年 1945 (70歳) |
水野広徳と桜井忠温は同郷・松山市に生れる また、 松山中学校の同窓 明治44年(1911)「此一戦」がベストセラー 反戦・平和主義者 |
大島松太郎 おおしま まつたろう 教育者 俳人 |
明治39年 1906 ~ 昭和57年 1982 (76歳) |
群馬県倉賀野町(現 高崎市) |
製作年 | 作品名 | 映画会社 | |
明治42年 1909 |
肉弾 | ||
大正13年 1924 |
肉弾 | ||
大正14年 1925 |
秩父の山美し | 日活 | あらすじは 桜井忠温全集第3巻 「煙幕」に掲載P109~ |
大正15年 1926 |
軍神橘中佐 | 日活 | |
昭和 2年 1927 |
赤城の夕映え | 日活 | 脚本も桜井忠温が手掛ける 主人公の橋本園太は前橋の人 |
昭和 3年 1928 |
肉弾決笑記 | マキノ | |
昭和 5年 1930 |
草に祈る | マキノ | |
昭和 7年 1932 |
陸軍大行進 | 松竹 |
我はただ一人なり
画業を志して筆を捨て 文を愛してその域に達せず 戦場に臨んで寸功なく
死中再生恥多く 戦友と共に死すべかりしを あああの日あの時 生命は泥の
ごとく 腥風血雨(生臭い風と血の雨)の惨酷に泣けり 友よ安らかに眠れ
我また老いたり 東都(東京)にあること五十春 故山を慕うて帰る
旧蘆(昔の住まい)滅びて跡なく 友は多く世を去る 古城はひとり我を悲しむ