伊勢崎銘仙アーカイブス

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 鈴木惣太郎物語


 鈴木惣太郎(すずき そうたろう) 伊勢崎市出身の「日本プロ野球の生みの親」
  明治23年(1890)5月4日~昭和57年(1982)5月11日 享年92歳
      2024年現在 生誕134年 没後42年



 伊勢崎市野球場
 鈴木惣太郎記念球場
伊勢崎市華蔵寺公園内
(伊勢崎市堤西町41番地)

広報いせさき
 平成18年7月16日号
鈴木惣太郎記念球場と愛称

広報いせさき
 平成19年2月1日号
鈴木惣太郎記念球場の名板
を正面入口に掲げる









































            石碑(翻刻)
  鈴木惣太郎の横顔
    明治23年伊勢崎に生まれる。 大学卒業後渡米、
   アメリカで多くの野球人と親交を深めた。昭和6年
   及び9年米国大リーグ選抜チームを招くことに成功。
   ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックなど来日。
   この機に全日本軍も沢村栄治、水原茂を中心として
   結成され、 これが後の読売巨人軍となる。戦後は
   日本野球連盟副会長として活躍され、 昭和43年
   野球殿堂入り。
   故郷伊勢崎では大正5年赤石倶楽部を結成、地元の
   野球発展にも力を尽くした。
               平成15年5月17日



       発起人
         伊勢崎還暦赤石クラブ
         伊勢崎市野球協会
        (財)伊勢崎市体育協会
       後援
         伊勢崎商工会議所
         伊勢崎佐波前中前高同窓会

 *******************************




    鈴木惣太郎さんのお墓
       鈴木家之墓

  伊勢崎市茂呂町1丁目3612
 退魔寺(たいまじ) TEL0270-25-4642


   野球ボールが供えられている















  墓誌(翻刻)

 誠照院洗堂惣哲大居士 昭和57年5月11日
とく 夫 惣太郎92才
 俗名 鈴木惣太郎は明治23年5月4日 父卯三郎
母ふくの長子として生を享け昭和初期より日本野球
の創設発展に尽力し、その功により、昭和43年
野球殿堂入り、昭和48年勲三等瑞宝章に叙せらる

 慈照院玉室妙徳大姉 平成2年6月3日
   惣太郎 妻 洋子 養母 とく 98才


















 氏名 職業 生没年   経歴
 鈴木惣太郎
すずき そうたろう
 野球  1890
明治23
 ~
1982
昭和57
 佐波郡伊勢崎町に生まれる 明治41年旧制前中卒、
大倉高商英語科卒、渡米しアメリカのプロ野球を
学ぶ、正力松太郎の米国大リーグ招聘に尽力
昭和43年 野球殿堂入り、昭和48年 勲三等瑞宝章
伊勢崎市営野球場を「鈴木惣太郎記念球場」と命名
「日本プロ野球の生みの親」と云われる


 明治23年(1890)5月4日佐波郡伊勢崎町に卯三郎の長男に生まれる
     父が前橋で米穀商を開業に伴い、前橋の敷島小、厩城高小
 明治41年(1908)群馬県立前橋中学校卒業
     前中時代は庭球部主将、また、野球部のOB会名簿に名を連ねている
     早大商科へ進学するが、病気のため中退、大倉高商(東京経済大学)英語科
     に転学し卒業
 大正5年(1916)横浜の小松商店に就職
     前中の先輩 小松(森山)晋助(前中 明治37年卒)が横浜で小松商店を開業し
     生糸貿易を行っていた
 大正5年(1916)8月11日 硬式野球チーム「赤石倶楽部」結団式が伊勢崎町で開催
     会長 大沢虎雄、監督 森村堯太、部員 中沢豊七、特別会員 鈴木惣太郎




  ASITAかるた









 大正13年(1924)前中 野球OBチーム厩城スター(田村専之助主将)のコーチと
      して前橋市へメジャーリーグ式を教示
 大正14年(1925)10月27日 県下野球人の恩人 惣さんの渡米
      「欧米の野球を研究して御土産にします」
 昭和3年(1928)3月15日 アメリカへ帰る 野球でおなじみの惣さん
      来月の四日またも出発
 昭和9年(1934)11月 鈴木惣太郎の斡旋で赤石倶楽部と前橋医師会倶楽部の
      親善野球定期戦にベーブルース杯が贈られる
 昭和10年(1935)8月10日 鈴木惣太郎、伊勢崎工業学校(現 伊勢崎工業高校)
      で学生に講演会




  いせさきかるた

(公社)伊勢崎青年会議所












 ★鈴木惣太郎★
  日本プロ野球創成の功労者。来日を渋るベーブ・ルースに対し、アポイントもなしに床屋
  にいたルースに似顔絵入りの日米野球のポスターを見せ「日本のファンはあなたがやってく
 るのを待っています」と説得、ルースは破顔一笑、来日を快諾したというエピソードがある。



出典・参考図書
  日米野球の架け橋 -鈴木惣太郎の人生と正力松太郎ー
   2013年11月発行 著者 波多野勝 発行所 (株)芙蓉書房出版


 残念ながら、伊勢崎の高校からは甲子園に行ったことが無い

  鈴木惣太郎の出身校、現 群馬県立前橋高等学校野球部は戦前から今日までに6回甲子園
 に出場している

 エピソード
   管理人が師とした伊勢崎市若葉町の故 大嶋祥司氏(昭和8年~平成30年)に生前お会
  いした際に、「大正後期に大嶋氏の父君 大嶋光男氏は前中時代に野球部で主将・投手で
  活躍し、甲子園に出場した」と語られた

   また、管理人の高校時代の同級生 丸橋昭雄君の父君 丸橋仁氏は前中時代野球部で、
  主将・投手で活躍し、甲子園に出場したことは有名である

   全く同じ話なので、最近調べてみたら大嶋光男氏は丸橋仁氏の1年先輩、ともに
  野球部の主将・投手で前中は連続して甲子園に出場していた前中全盛期時代



大正15年(1926)8月18日
阪神甲子園球場
第12回全国中等学校優勝野球大会
準々決勝第3試合
北関東代表 前橋中学校  対
神静代表  静岡中学校
高校野球史上最長(当時)延長16回
  前橋中 5-6 静岡中
スコアボードが継ぎ足されている






    みやま文庫「群馬の高校野球」著者 丸橋仁
    昭和44年発行

 丸橋仁(まるばし じん) 明治42年(1909)~不明
    大正14年(1925)前橋中学校4年生の時、第11回全国中等学校優勝野球大会
   甲子園出場、丸橋は3塁 初戦敗退 前中 0-2 米子中(鳥取県)
    翌、大正15年(1926)前橋中学校5年生の時、第12回全国中等学校優勝野球
   大会 甲子園出場、丸橋は投手・主将で準々決勝第3試合において静岡中と
   高校野球史上最長延長19回で敗れる
   昭和5年(1930)横浜高等工業(現 横浜国立大学)卒業後、内外綿(株)に入社
   上海工場長、戦後は母校前橋高校のコーチとして 昭和23年(1948)第30回 
   甲子園出場
   前橋市の弁天通り商店街で布団店「まるじん」を経営
   昭和44年(1969)栃木県の足利学園(現 白鴎大学足利高等学校)のコーチ・部長
   を歴任
   昭和50年(1975)足利学園 甲子園出場 第57回夏大会
   昭和54年(1979)足利学園 甲子園出場 第61回夏大会



 松本稔(まつもと みのる) 昭和35年(1960)~現在
   伊勢崎市馬見塚町に生まれる 豊受小、第二中学校から前橋高等学校に進学
   昭和53年(1978)3月30日 第50回選抜高校野球 甲子園出場、初戦で滋賀県
   の比叡山高戦で高校野球史上初の完全試合を達成
   昭和60年(1985)筑波大学大学院修士課程修了
   群馬県立中央高等学校教諭 同校 硬式野球部監督
   昭和62年(1987)第69回全国高等学校野球選手権大会に中央高校 甲子園出場
   PL学園に2-7で1回戦敗退
   平成4年(1992)前橋高等学校に赴任、硬式野球部監督
   平成14年(2002)第74回選抜甲子園出場 初戦敗退 前高 1-2 九州学院
   現在は中央高校の後身、中央中等教育学校教諭、硬式野球部監督
    *主な著書「スポーツ・体育ものがたり 3 なげてうつすぽーつ」
     平成2年(1990)3月発行 作者 松本稔 発行所 岩崎書店


  群馬県立前橋高等学校野球部甲子園出場数
 1 第11回
 大正14年
1925
1回戦敗退  1回戦 前中 0-2 米子中
 投手 大嶋光男 伊勢崎市川久保町
三塁 丸橋仁
 2 第12回 
大正15年
1926
 夏  ベスト8  1回戦不戦勝
2回戦 前中 6-1 神港中
ベスト8 前中 5-6 静岡中
高校野球史上最長延長19回
投手 丸橋仁
 3 第14回 
昭和3年
1928
 夏  2回戦敗退  1回戦不戦勝
2回戦 前中 7ー12 台北工
 4 第30回 
昭和23年
1948
 夏  1回戦敗退 1回戦 前高 3-5 函館工
コーチ 丸橋仁
 5 第50回選抜 
昭和53年
1978
 春  2回戦敗退 投手 松本稔 高校野球史上初完全試合を達成
 6 第74回選抜 
平成14年
2002
 春  1回戦敗退  監督 松本稔 前高 1-2 九州学院