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矢島保治郎物語
矢島保治郎(やじま やすじろう) 伊勢崎市出身の
探検家・冒険家
明治15年(1882)8月23日~昭和38年(1963)2月13日 享年80歳
2024年現在 生誕142年 没後61年
チベットの旗
雪山獅子旗(せつざんししき)
チベットで大正2年1月1日 正月に
矢島保治郎が日章旗を宿舎に掲げた
これを契機にチベットの国旗を制定
図案は矢島保治郎(諸説あり)と伝えられる
当時のチベット探検は
1、地理的に悪条件でヒマラヤ山脈とコンロン山脈に囲まれ、海抜4~5千m
(富士山3,776m)
2、厳重な鎖国主義
多くの外国人探検家が入蔵(にゅうぞう チベットへ入国すること)を残念した
聖都 ラサ チベット探検家の最終目標
明治15年、
上野国佐位郡上植木村(伊勢崎市本関町)の
農家に生まれ 父 新蔵、母 えい 三男一女の末子である
矢島家は農業の傍ら、座繰器の枠造り店「大枠屋」や、
質店を営み裕福な家であった
明治30年4月
群馬県尋常中学校(現 群馬県立前橋高等学校)入学
保治郎は1学年を留年し、後に退学となる
明治32年9月 群馬県前橋中学校利根分校(現 群馬県立沼田高等学校)2年入学
利根分校時代にも学業には身が入らず
明治34年1月 利根分校退学
ーーーーー 今日のヤンチャな中学生だった ----
前橋高校百三年史 上巻 P364より 中学生時代の思い出 明治36年卒 三木栄
「明治31年4月、私等が入学した時、笠井作三、矢島保治郎という落第生の暴れん坊
が居て朝、敬礼をしないとき或は素振りが生意気だと云って呼びつけ訓戒や鉄拳制裁
をやるので新入生は控所でびくびくしながら静粛にして居たものであった。
両人共中途退学して・・・・
矢島君は力工(ママ)会に入り支那に渡り・・・・」
利根分校時代は猟銃を手に利根の山を駆け回っていた
海外渡航志向で英語会話の勉強で前橋のキリスト教会へ通っていた
明治35年12月 下士官候補生として高崎の歩兵第15連隊第8中隊入隊
明治37年~明治38年 日露戦争に従軍
明治39年 軍曹に昇格
保治郎は戦功により、功七級金鵄勲章を授与、年額150円の終身年金が付いた
保治郎は戦地において中国語とロシア語を学んだ
明治39年4月 陸軍外山学校を命ぜられる
河口慧海(かわぐち えかい)慶応2年(1866)~昭和20年(1945)享年79歳
仏教学者 探検家 現 大阪で生まれ、上京し哲学館(現 東洋大学)に学ぶ
著書「西蔵旅行記」 明治37年(1904)青空文庫
押川春浪(おしかわ しゅんろう)明治9年(1876)~大正3年(1914)享年38歳
冒険小説家、SF作家 「冒険世界」明治41年(1908)
明治40年12月 除隊
明治41年1月
日本力行(りっこう)会 会長 島貫兵太夫(しまぬき ひょうだゆう
キリスト教伝道者)に入会
日本力行会に冒険倶楽部を設置し隊長に就任
世界無銭旅行 10年計画(上海までは船で、その後は現地で働きながら旅行)
賛同者は30人となるが、3人となり、最後は矢島保治郎 1人となる
父 新蔵に渡航資金の援助を求め、年金を担保に金を借りた
明治42年2月3日 横浜港より讃岐丸にて出港、
新橋駅の見送りには、群馬県尋常中学校(現 群馬県立前橋高等学校)のヤンチャ
仲間の笠井作三(新聞記者)が来た
中国各地を巡る 上海 南京 北京 成都 重慶 ・・・ 等
茶馬古道(南のシルクロード)から商隊に加わり、ラサを目指す
明治44年3月4日 2年1ヶ月で目的地のラサに到着 ポタラ宮に感動
2ヶ月程でインドへ向かう商隊に加わりダージリン経由でカルカッタ
を目指す
明治44年5月1日 ダージリンにて第13世ダライラマに謁見
明治44年9月下旬 英国貨物船SSカラモ号の船員に就職、インドのカルカッタ発
カルカッタ → ニューヨーク → シンガポール → 横浜 → カルカッタ
明治45年3月 各国を巡り6ヶ月後、横浜に2日間入港(停泊)
2度目のチベット潜入(インドからのルート、前年チベット出国の逆ルート)
2日間の下船中、無銭旅行(チベット再入国)を続けるための金策に駆け回った
川島浪速(なにわ 男装の麗人 川島芳子の義父)が資金提供をし
川島からの使命は日本の援助下でチベットを独立国家とすることであると思われる
明治45年6月15日 インドのカルカッタで下船
明治45年7月23日 ラサ着
明治45年7月30日 明治天皇崩御
大正2年1月1日 正月に矢島保治郎が日章旗を宿舎に掲げた これを契機にチベット
の国旗を制定 図案は矢島保治郎(諸説あり)と伝えられる
矢島保治郎は許可を得て、ラサの地図を作成
参謀総長の顧問に迎えられ、数千人を入れる兵舎の建設を依頼される 陸軍外山学校
を模した兵舎をラサ周辺に数ヶ所に三年かけて建設した
また、近衛兵と蔵兵の訓練を頼まれる
大正2年9月 日本力行会 会長 島貫兵太夫逝去47歳
大正3年3月 父 新蔵逝去
大正3年11月 押川春浪逝去38歳
大正5年3月 矢島保治郎33歳、チベット人 ノブラ 22歳と結婚
大正6年3月 長男 意志信(いしのぶ)誕生
大正7年7月 母 えい 逝去
大正7年10月下旬 ラサ発
大正7年12月31日 インド カルカッタより日本船アヤハ丸に乗船
清水善造(箕輪出身 高中 東京高商卒)三井物産勤務 インド駐在 支援
大正8年1月 北海道室蘭上陸
大正8年3月 前橋の家(座繰器の枠造り店)で暮らす (前橋市本町15番地)
大正12年3月 妻 ノブラ 逝去29歳
昭和6年3月 保治郎(48歳) 勢多郡粕川村の遠藤きん(39歳)と再婚
昭和8年 長女 仲子誕生
昭和19年6月 長男 意志信 ニューギニアで戦死27歳
昭和38年2月 矢島保治郎 逝去80歳 生前にキリスト教の洗礼を受けていた
矢島保治郎の墓所
伊勢崎市本関町1166
伊勢崎大間々線交差点の角
霊所には 十字架、ヨゼフ矢島保治郎
墓誌には 妻 ノブラ 大正十二年三月十五日 二十九才
長男 意志信 昭和十九年六月三十日 二十七才
ヨゼフ矢島保治郎 昭和三十八年二月十三日 八十才
(墓誌建之)
昭和五十二年春彼岸 前橋市 矢島きん
(墓誌追加)
マリアカタリナ矢島きん
粕川村遠藤家に生れ 昭和六年保次郎(ママ)の妻となり
平成元年七月九日没 九十八才
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出典・参考図書
明治37年 「西蔵旅行記」河口慧海著 青空文庫(WEB閲覧可)
昭和48年 「日本人の冒険と探検」 長沢和俊著 白水社
昭和58年 「入蔵日記(生誕百年記念)」 矢島保治郎著
チベット文化研究所 ポタラブックス
昭和61年 「世界無銭旅行者 矢島保治郎」 浅田晃彦著 筑摩書房
*浅田晃彦(あさだ てるひこ)1915~1996
昭和9年前橋中学校卒(矢島保治郎の後輩)慶応大学医学部卒
平成31年 「20世紀初頭の 世界無銭旅行 考ー矢島保治郎の第1次入蔵と押川春浪
の武侠世界」 神田外国語大学日本研究者紀要 松本高明著(WEB閲覧可)
管理人の同級生 中村進君を紹介します
憧憬の地 チベット ヒマラヤ の大自然へ帰っていきました
中村 進(なかむら すすむ) 写真家、登山家、冒険家
昭和21年(1946)1月15日~平成20年(2008)10月1日 享年62歳
2024年現在 生誕78年 没後16年
日本人で初めて北極点、南極点、エベレスト(チョモランマ)の3極制覇に成功し、
昭和63年(1988)にはエベレスト(チョモランマ)頂上からテレビ中継。
昭和21年(1946)1月15日 父 中村幾男 母 宇多 に生まれる
昭和39年(1964)3月 群馬県立前橋高等学校卒 (矢島保治郎の後輩)
昭和39年(1964)4月 日本大学入学、山岳部に入部
昭和47年(1972)3月 日本大学経済学部 引き続き 日本大学芸術学部写真学科卒業
昭和53年(1978) 日本大学北極点遠征隊 日本人初の北極点到達
昭和63年(1988) 日本山岳会三国友好チョモランマ登山隊
チョモランマ登頂(日本人28番目)
世界初の山頂からの生中継に成功
平成 6年(1944) 日本南極点スキーマラソンチーム
クロスカントリースキーで南極点到達
日本人初の三極点到達
平成20年(2008)
9月21日
チベット ザーリ村の
チベット族の人々と
最後の写真
平成7年(1995)3月14日
日本テレビから「走れ!南極大氷原」放送
南極点スキーマラソン「未知への旅」
著者 中村 進
発行所 読売新聞社
発行日 平成8年(1996)12月
平成20年(2008)10月2日 中国チベット自治区のヒマラヤ高峰 クーラカンリ
7583m登頂を目指していた日本人登山隊が雪崩に巻き込まれ、隊員3人が死亡した。
死亡したのは、中村進さん(62)、加藤慶信さん(32)と有村哲史さん(27)の3人。