伊勢崎銘仙アーカイブス

TOP  topページへもどる

PROFILE  人物紹介へもどる


 礒部草丘物語

  礒部草丘(いそべ そうきゅう) 伊勢崎市出身の日本画家
  本名 礒部覺太 雅号 草丘(そうきゅう)句号 尺山子(しゃくざんし)
  明治30年(1897)3月24日~昭和42年(1967)1月9日
      2020年現在 生誕123年 没後53年

  *礒部草丘の苗字の礒は 石 + 義 で、磯部温泉の磯 石 + 幾 ではない
   礒部は山の民をルーツとする

  赤城山

伊勢崎華蔵寺公園から
赤城山を望む
 (鳥瞰図のよう)


この絵は磯部草丘の絵を
こよなく愛した平田達夫
併用絣レプリカである







 礒部草丘の日本画をインターネットで鑑賞
 
伊勢崎市インターネット 美術館 礒部草丘




 目黒雅叙園 百段階段「草丘の間」をGoogle インドアビューにてバーチャルに鑑賞

 ホテル雅叙園東京 百段階段 「草丘の間」






 伊勢崎市には美術館が無い、時々「市収蔵美術展」
を市内の大型店や市の施設で開催している















 みどり市では礒部草丘を大間々のゆかりの日本画家
として展覧会を開催している

 草丘が群馬県立前橋中学校卒業後、画家を志す以前
に一年間志願兵として高崎歩兵十五連隊に入った時に
ここで大間々の新井国蔵と出会い、草丘の生涯の友と
なったと説明している












  礒部草丘を調べようと色々とパンフレットを見たり
 ネットで検索するが、
  昭和56年発行 みやま文庫「群馬の近代美術」
 で関俊治氏が執筆を担当した「礒部草丘」の記事を
 要約したものである














伊勢崎市の旧宮郷公民館
(伊勢崎市田中島町1164)
の敷地に礒部草丘の胸像が建立されている

1978(昭和53)建立
内閣総理大臣福田赳夫書
制作者 DOBASHI








 華蔵寺公園の西、伊勢崎市野球場西の駐車場入り口
 礒部草丘の句碑

 俳句

 埋火や
 絵の道行けば
 逢ふ大雅


  尺山子
(俳号 しゃくざんし)








上記句碑の左上の漢詩部分を拡大

 漢詩
赤峰刀水夕陽斜めなり
一径靄然(あいぜん)として故家に通ず
紫菫蒲、公春満目たり
郷心此れを喜ぶ舊知の花
     帰省途上作  艸道人







句碑の裏

 昭和五十八年一月九日
  氷炭 同人建立










 句碑説明板











  作者は、磯部草丘、名は覺太、号を草丘。明治三十年
  (1897)三月、伊勢崎市宮古町の農家に生れる幼よ
  り敏慧(びんけい)、読書を好み、書画を善(よ)くす。
  大正四年(1915)県立前橋中学校を卒業、上京して
  川合玉堂に入門、丹青の技を修める。大正十三年第五回
  帝展に入選、以来入選九回、昭和九年(1934)には
  特選に選ばれ、帝展改組後の文展、日展に委嘱出品する
  こと七回、日本画壇の鬼才と目され児玉希望とともに
  玉堂門下の双璧と称せられた大正十四年(1925)
  俳誌「渋柿」(松根東洋城主宰)を知得、尺山子と号し、
  詩画一体の境地を極め、同誌の主要同人として活躍。
  句集「氷炭」及び「続氷炭」を著す。また漢詩を好み、
  晩に今関天彭について詩法を問い、当卋一流と許さる。
  「尺山丈艸居詩鈔」一巻を著し、その数首は「日本漢詩」
  (明治書院刊)に収めらる。
  昭和三十八年(1963)県展創設に尽力した功績に
  より群馬県功労賞を受賞。昭和四十二年(1967)
  一月九日・七十才にて卋を去る。
                 昭和五十八年一月九日



   伊勢崎市宮古町の世帯数約130戸で礒部の姓は1割の13戸、辺りは農村地帯で
  巨峰の売店の出る県道駒形柴町線の韮川の西に纏まって存在する(令和2年4月現在)

   宮古では「我が家」に「名号」を付ける方が多い、世界遺産「田島弥平旧宅」の蚕種
  屋号「遠山近水屯舎」と同じものである

    伊勢崎史話 昭和36年(1961)発行 宮古雑記 渡辺敦より抜粋

     当主名   名号(屋号)
    礒部中馬    茂草園
    礒部晋太郎   深耕堂
    礒部義郎    萬頃舎
    礒部儀三郎   積極館  礒部草丘の実家の隣 昭和6年に泊まり込み絵を描く

   大正5年頃、村の青年会の文芸誌「南風(したけ)」に参画、雅号「丘湖山人」を用
  いた
 西暦  年齢  出来事
 1897
明治30年
  0  佐波郡宮郷村大字宮古(現 伊勢崎市宮古町)
礒部治作、そめ の五男三女の次男として 3月24日生誕
 1910
明治43年
 13  群馬県立前橋中学校入学
同級生に森村酉三(鋳金工芸家)・横堀角次郎(洋画家)
また、日本画家を目指したのは同級生の阿部国治(東京帝国大学卒)と
の交際による
 1915
大正 4年
 17  群馬県立前橋中学校卒業
卒業後は一年志願兵として高崎歩兵十五連隊に入隊し、大間々の新井国蔵
と出会い生涯の友となる
その後、地元で代用教員を勤める
 1919
大正 8年
 22  叔父の東京帝国大学教授 美学者 大塚保治(旧姓 小屋)の下に身を寄せ
叔父の紹介で川合玉堂に入門
 1924
大正13年
 27  第5回帝展に「冬ざれ」が入選 その後病気療養で俳句に親しむ
「冬ざれ」はドイツ人に贈られ、現在ドイツに存在していると思われる
 1025
大正14年
 28  俳誌「渋柿」松根東洋城主宰に参加、尺山子と号す
 1927
昭和 2年
 30  児玉希望門下の戊辰会に参加
 1928
昭和 3年
 31  昭和3年より昭和9年まで帝展に連続出品
「簗の豊秋村」(第9回)、「梅花村図」(第10回)、「房南閑居」(第11回)、
「空山流水」(第12回)、「岬」(第13回)、「虹」(第14回)、「葉月の潮」
(第15回)
 1941
昭和16年
 44  群馬美術協会創設
前橋中学校時代の同級生森村酉三(鋳金工芸家)・横堀角次郎(洋画家)
が中心になり会長には小室翠雲(すいうん 日本画家 館林市出身)が就任
 1942
昭和17年
 45  目黒雅叙園 百段階段「草丘の間」制作
 1944
昭和19年
 47  陸軍歩兵少尉として応召、台湾で終戦を迎えた
 1945
昭和20年
 48  復員後は郷里伊勢崎郊外に住み、戦後は個展を中心に作品を発表
 1957
昭和32年
 60  俳句集「氷炭」を刊行
 1964
昭和39年
 67  群馬県功労者表彰
 1967
昭和42年
 69  1月9日逝去






 群馬県立前橋高等学校
西暦 
和歴
校 名
所在地 
卒業者並びに縁故者   
 1884
明治17年
 群馬県中学校
南勢多郡小暮村
(現 前橋市富士見町)
 大塚(旧姓 小屋)保治  卒業
 1900
明治33年
 群馬県前橋中学校
東群馬郡紅雲分村
(現 前橋市紅雲町)
 萩原朔太郎  入学
 1901
明治34年
 群馬県立前橋中学校  町田佳聲(英)、森村堯太(良策)  入学
 1906
明治39年
    同上  萩原朔太郎、町田佳聲、森村堯太  卒業
 1910
明治43年
    同上  礒部草丘(覚太)、阿部国治
森村酉三 明治45年退学 県立沼田中学校に編入
横堀角次郎 大正3年 東京・芝の正則中学校に転校
 入学
 1915
大正 4年
    同上  礒部草丘、阿部国治  卒業




 阿部国治(あべ くにじ) 阿部國治(あべ くにぢ)
  明治30年(1897)~昭和44年(1969)享年72歳

  明治30年(1897)勢多郡城南村荒砥に生まれる
 父は霞堂と号する日本画家
 明治43年(1910)群馬県立前橋中学校に入学し礒部草丘と
 同級 大正4年(1915)同校卒業、大正7年(1918)
 第一高等学校を卒業、大正10年(1921)東京帝大大学法科
 を首席で卒業、大正12年(1923)同大学院法学部の副手を
 辞し大正13年(1924)東京帝大文学部印度哲学科に入学し
 昭和2年(1927)首席で卒業、私立川村女学園教頭、満蒙開
 拓指導員養成所の教学部長を経て、私立川村短期大学教授、川村
 高等学校副校長となる 昭和44年(1969)逝去 






 主な著書に「ふくろしょひのこゝろ」がある
    漢文字にすれが「袋背負いの心」

  昭和19年(1944)1月発行
  発行所 中央公論社

  東大法学部を首席で卒業すると、先は東大法学部の
 教授か高級官僚の道が約束されているが・・・









 大塚保治(おおつか やすじ)
  明治元年(1868)~昭和6年(1931)享年63歳
   美学者。前橋生れ。東大卒、東大教授。日本のおける西洋美学研究の基礎を築く。
   日本語大辞典(講談社)より

  明治17年(1884)群馬県中学校(現 群馬県立前橋高等学校)卒業
  礒部草丘の叔父、東京帝国大学美学教授大塚保治の建議で1907(明治40年)に
 第1回文展が上野公園で開催され、美術審査員に就任
  文展の開催趣旨は日本美術・洋風美術、それぞれの新旧諸流派が対立し反目し合う
 美術界に共通の場を与え,抗争を収拾して美術の振興を図ることを目的


 回  開催年  名称  礒部草丘
画題
 森村酉三
作品名
17 1924
(大正13年)
第5回帝展  「冬ざれ」
初入選
 
18 1925
(大正14年)
第6回帝展    
19 1926
(大正15年)
第7回帝展    
20 1927
(昭和2年)
第8回帝展    「鋳銅風花瓶・燈」
21 1928
(昭和3年)
第9回帝展  「簗の豊秋村」  「ペリカン銀香炉」
22 1929
(昭和4年)
第10回帝展  「梅花村図」  「鋳銀雉香炉」
23 1930
(昭和5年)
第11回帝展  「房南閑居」  「鋳銀白鷹香炉」
24 1931
(昭和6年)
第12回帝展  「空山流水」  「錦鶏鳥金銅置物香炉」
25 1932
(昭和7年)
第13回帝展  「岬」  「銀銅鸚鵡置物」
26 1933
(昭和8年)
第14回帝展  「虹」  「鋳銅双鵜置物」
27 1934
(昭和9年)
第15回帝展  「葉月の潮」
特選
 「白銅鷺置物」
-- 1935
(昭和10年)
 開催なし    
28 1936
(昭和11年)春
改組
第1回帝展
   「鋳銅うさぎ置物」
29 1936
(昭和11年)秋
昭和11年文展  「秋立つ浦」  「鋳銅雉置物」
30 1937
(昭和12年)
第1回新文展    「洋銀孔雀香炉」
31 1938
(昭和13年)
第2回新文展  「東海の冬」  「鋳銅梅花紋水盤
32 1939
(昭和14年)
第3回新文展    「鋳銅飛魚置物」
33 1940
(昭和15年)
紀元2600年
奉祝展
 「東海春暁」  
34 1941
(昭和16年)
第4回新文展  「白砂青松」  「鋳銅蟹香炉」
35 1942
(昭和17年)
第5回新文展    「海の荒鷲鋳銅置物」
36 1943
(昭和18年)
第6回新文展    「北洋の雄鋳銅置物」
37 1944
(昭和19年)
戦時特別展  
陸軍歩兵少尉と
して応召

 「鋳銅鯰置物」
無監査
-- 1945
(昭和20年)
 開催なし  台湾で終戦を迎えた  
38 1946
(昭和21年)春
第1回日展  復員  
39 1946
(昭和21年)秋
第2回日展    
40 1947
(昭和22年)
第3回日展    
41 1948
(昭和23年)
第4回日展    
42 1949
(昭和24年)
第5回日展  「夏の山」
依嘱出品
 1月逝去
43 1950
(昭和25年)
第6回日展    
44 1951
(昭和26年)
第7回日展    
45 1952
(昭和27年)
第8回日展  「晨潮」
依嘱出品
 
46 1953
(昭和28年)
第9回日展    
47 1954
(昭和29年)
第10回日展  「雲と花栗」
依嘱出品
 
48 1955
(昭和30年)
第11回日展  「ふるさとの山河」
依嘱出品
 




 夏目漱石の失恋説

              大塚楠緒子(くすおこ、なおこ)









     夏目漱石              大塚保治


  夏目漱石にとって大塚楠緒子は才色兼備の理想の女性、しかし彼女は礒部草丘の叔父、
 大塚(小屋)保治を選んだ
 大塚保治は「吾輩は猫である」に登場する美学者 迷亭のモデルと言われている
 



 大塚楠緒子(おおつか くすおこ)
明治8年(1875)~明治43年(1910) 享年35歳
歌人、詩人、小説家
明治28年(1895)小屋保治と結婚、小屋は婿入りし大塚姓に、
夏目漱石は失恋し遠く四国の松山中学の教師へ





   日露戦争に出征した夫の無事を祈る歌 大塚楠緒子 明治38年(1905)発表

  お百度詣(おひゃくどもうで)

   ひとあし踏みて夫(つま)思ひ、
   ふたあし国を思へども、
   三足ふたゝび夫おもふ、
   女心に咎(とが)ありや。

   朝日に匂ふ日の本の    
   国は世界に唯(ただ)一つ。
   妻と呼ばれて契(ちぎ)りてし、
   人もこの世に唯ひとり。

   かくて御国(みくに)と我(わが)夫と(*)
   いづれ重(おも)しととはれなば
   たゞ答へずに泣かんのみ
   お百度まうであゝ咎ありや