西暦 | 年齢 | 出来事 |
1897 明治30年 |
0 | 佐波郡宮郷村大字宮古(現 伊勢崎市宮古町) 本名は覚太 礒部治作、そめ の五男三女の次男として 3月24日生誕 |
1910 明治43年 |
13 | 群馬県立前橋中学校入学 同級生に森村酉三(鋳金工芸家)・横堀角次郎(洋画家) また、日本画家を目指したのは同級生の阿部国治(東京帝国大学卒)と の交際による |
1915 大正 4年 |
17 | 群馬県立前橋中学校卒業 卒業後は一年志願兵として高崎歩兵十五連隊に入隊し、大間々の 新井国蔵と出会い生涯の友となる その後、地元で代用教員を勤める |
1919 大正 8年 |
22 | 叔父の東京帝国大学教授 美学者 大塚保治(旧姓 小屋)の下に身を寄せ 叔父の紹介で川合玉堂に入門 |
1924 大正13年 |
27 | 第5回帝展に梨木温泉で描いた「冬ざれ」が入選 その後病気療養で 俳句に親しむ 「冬ざれ」はドイツ人に贈られ、現在ドイツに存在していると思われる |
1925 大正14年 |
28 | 俳誌「渋柿」松根東洋城主宰に参加、尺山子と号す |
1926 昭和 元年 |
29 | 西荻窪に尺山丈草居を新築 |
1927 昭和 2年 |
30 | 児玉希望門下の戊辰会に参加 |
1928 昭和 3年 |
31 | 昭和3年より昭和9年まで帝展に連続出品 「簗の豊秋村」(第9回)、「梅花村図」(第10回)、「房南閑居」(第11回)、 「空山流水」(第12回)、「岬」(第13回)、「虹」(第14回)、「葉月の潮」 (第15回) |
1941 昭和16年 |
44 | 群馬美術協会創設 前橋中学校時代の同級生森村酉三(鋳金工芸家)・横堀角次郎(洋画家) が中心になり会長には小室翠雲(すいうん 日本画家 館林市出身)が就任 |
1942 昭和17年 |
45 | 目黒雅叙園 「鶴の間」 制作 |
1943 昭和18年 |
46 | 目黒雅叙園 百段階段「草丘の間」制作 |
1944 昭和19年 |
47 | 陸軍歩兵少尉として応召 |
1945 昭和20年 |
48 | 台湾で終戦を迎える |
1946 昭和21年 |
49 | 2月20日 復員帰還 伊勢崎市西園町に仮寓 、後に連取町へ移居 11月に群馬美術協会の戦後第1回展が伊勢崎日野屋デパートで開催 |
1947 昭和22年 |
50 | 第1回個展を東京日本橋三越で開催 |
1948 昭和23年 |
51 | 12月30日 西荻窪の尺山丈草居に戻る |
1957 昭和32年 |
60 | 4月10日 俳句集「氷炭」が渋柿図書刊行会から刊行 |
1963 昭和38年 |
66 | 11月3日 群馬県功労者表彰 |
1966 昭和41年 |
69 | 5月 宇野菜花洞先生墓碑建立 |
1967 昭和42年 |
69 | 1月9日 逝去 1月11日 西荻窪の尺山丈草居にて葬儀 静岡県御殿場市富士霊園墓所 |
夏目漱石 | 伯父 大塚(小屋)保治 |
ー | 父 礒部治作 母 そめ 兄 菊寿 |
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大塚楠緒子 | \ | | | / | 宇野菜花洞 (宇野柳八) |
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(妻)静江 | ー | 礒部草丘 | ー | 森村酉三 横堀角次郎 阿部國治 |
礒部治作 | 父 | 馬次郎の長男 | 第一級村会議員 5男3女を儲ける |
そめ | 母 | 旧姓は小屋 | |
菊寿 | 兄 | 25歳で逝去 | 早稲田大学卒、社会運動家 |
大塚保治 | 伯父 | 旧姓は小屋 | 東京帝大教授 夏目漱石と友人 |
楠緒子 | 伯母 | 歌人、詩人、小説家 | 保治の妻、夏目漱石が恋した? |
夏目漱石 | 文学者 | ||
宇野菜花洞 | 恩師 | 本名 宇野柳八 | 宮郷小学校 |
森村酉三 | 鋳金工芸家 | 前中同級生 三酉会 | |
横堀角次郎 | 洋画家 | 前中同級生 三酉会 | |
阿部國治 | 教育者 | 前中同級生 | 東京帝大法学部主席卒業 |
新井国蔵 | 同期入隊 | 旧姓は阿久津三郎 | 高崎歩兵十五連隊 みどり市 |
西暦 和歴 |
校 名 所在地 |
卒業者並びに縁故者 | |
1884 明治17年 |
群馬県中学校 南勢多郡小暮村 (現 前橋市富士見町) |
大塚(旧姓 小屋)保治 | 卒業 |
1900 明治33年 |
群馬県前橋中学校 東群馬郡紅雲分村 (現 前橋市紅雲町) |
萩原朔太郎 | 入学 |
1901 明治34年 |
群馬県立前橋中学校 | 町田佳聲(英)、森村堯太(良策) | 入学 |
1906 明治39年 |
同上 | 萩原朔太郎、町田佳聲、森村堯太 | 卒業 |
1910 明治43年 |
同上 | 礒部草丘(覚太)、阿部國治 森村酉三 明治45年退学 県立沼田中学校に編入 横堀角次郎 大正3年 東京・芝の正則中学校に転校 |
入学 |
1915 大正 4年 |
同上 | 礒部草丘、阿部國治 | 卒業 |
明治30年(1897)勢多郡荒砥村に生まれる
父は霞堂と号する日本画家
明治43年(1910)群馬県立前橋中学校に入学し礒部草丘と
同級 大正4年(1915)同校卒業、大正7年(1918)
第一高等学校を卒業、大正10年(1921)東京帝大大学法科
を首席で卒業、大正12年(1923)同大学院法学部の副手を
辞し大正13年(1924)東京帝大文学部印度哲学科に入学し
昭和2年(1927)首席で卒業、私立川村女学園教頭、満蒙開
拓指導員養成所の教学部長を経て、私立川村短期大学教授、川村
高等学校副校長となる 昭和44年(1969)逝去
回 | 開催年 | 名称 | 礒部草丘 画題 |
森村酉三 作品名 |
17 | 1924 (大正13年) |
第5回帝展 | 「冬ざれ」 初入選 |
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18 | 1925 (大正14年) |
第6回帝展 | ||
19 | 1926 (大正15年) |
第7回帝展 | ||
20 | 1927 (昭和2年) |
第8回帝展 | 「鋳銅飾花瓶・燈」 |
|
21 | 1928 (昭和3年) |
第9回帝展 | 「簗の豊秋村」 | 「ペリカン銀香炉」 |
22 | 1929 (昭和4年) |
第10回帝展 | 「梅花村図」 | 「鋳銀雉香炉」 |
23 | 1930 (昭和5年) |
第11回帝展 | 「房南閑居」 | 「鋳銀白鷹香炉」 |
24 | 1931 (昭和6年) |
第12回帝展 | 「空山流水」 | 「錦鶏鳥金銅置物香炉」 |
25 | 1932 (昭和7年) |
第13回帝展 | 「岬」 | 「銀銅鸚鵡置物」 |
26 | 1933 (昭和8年) |
第14回帝展 | 「虹」 | 「鋳銅双鵜置物」 |
27 | 1934 (昭和9年) |
第15回帝展 | 「葉月の潮」 特選 |
「白銅鷺置物」 |
-- | 1935 (昭和10年) |
開催なし | ||
28 | 1936 (昭和11年)春 |
改組 第1回帝展 |
「鋳銅うさぎ置物」 | |
29 | 1936 (昭和11年)秋 |
昭和11年文展 | 「秋立つ浦」 | 「鋳銅雉置物」 |
30 | 1937 (昭和12年) |
第1回新文展 | 「洋銀孔雀香炉」 | |
31 | 1938 (昭和13年) |
第2回新文展 | 「東海の冬」 | 「鋳銅梅花紋水盤 |
32 | 1939 (昭和14年) |
第3回新文展 | 「鋳銅飛魚置物」 | |
33 | 1940 (昭和15年) |
紀元2600年 奉祝展 |
「東海春暁」 | |
34 | 1941 (昭和16年) |
第4回新文展 | 「白砂青松」 | 「鋳銅蟹香炉」 |
35 | 1942 (昭和17年) |
第5回新文展 | 「海の荒鷲鋳銅置物」 | |
36 | 1943 (昭和18年) |
第6回新文展 | 「北洋の雄鋳銅置物」 | |
37 | 1944 (昭和19年) |
戦時特別展 | 陸軍歩兵少尉と して応召 |
「鋳銅鯰置物」 無監査 |
-- | 1945 (昭和20年) |
開催なし | 台湾で終戦を迎えた | |
38 | 1946 (昭和21年)春 |
第1回日展 | 復員 | |
39 | 1946 (昭和21年)秋 |
第2回日展 | ||
40 | 1947 (昭和22年) |
第3回日展 | ||
41 | 1948 (昭和23年) |
第4回日展 | ||
42 | 1949 (昭和24年) |
第5回日展 | 「夏の山」 依嘱出品 |
1月逝去 |
43 | 1950 (昭和25年) |
第6回日展 | ||
44 | 1951 (昭和26年) |
第7回日展 | ||
45 | 1952 (昭和27年) |
第8回日展 | 「晨潮」 依嘱出品 |
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46 | 1953 (昭和28年) |
第9回日展 | ||
47 | 1954 (昭和29年) |
第10回日展 | 「雲と花栗」 依嘱出品 |
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48 | 1955 (昭和30年) |
第11回日展 | 「ふるさとの山河」 依嘱出品 |