伊勢崎銘仙アーカイブス
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 利根川  作成中


 
  利根川
  那波城
  例幣使街道
  飯玉神社
  今井町 今昔
  銘仙産地 名和村
















  利根川は「坂東太郎」と呼称され、日本三大「暴れ川」の一つと云われる
 「暴れ川」とは、洪水と水害の多い河川である

  名和村(現 伊勢崎市名和地区)は伊勢崎市の南西に位置し利根川を挟んで南は埼玉県
 本庄市、西は佐波郡玉村町である


   伊勢崎市 利根川沿い流域の町名の特徴
     *町名(大字)に島、塚、沼が含まれている

      島 上流からの土砂が堆積し洲が現れた所
         福島町、八斗島町、飯島町、島村、境中島
      塚 上流からの土砂が集積・堆積し盛り上がった所
         戸谷塚町、富塚町、境平塚
      沼 昔村中に沼が在り後に長沼と云う
         長沼町


















  広瀬川は江戸時代の「伊勢崎風土記」には 比利根川(ひとねがわ)と呼ばれ、古は広瀬川
 が正流で、今の利根川は支流であったが入れ代わったとある。


  小泉城(こいずみじょう) 小泉村 15世紀に水没し残土今僅かに在り 元城と呼ぶ
   村民は柴町に移住
   小泉村は現在の清掃リサイクルセンター21 の辺り


  柴町に靱負河岸(ゆきえかし)が在り、船問屋が1~2軒
     伊勢崎風土記より

  産物(漁業) 名和村の魚場は主に下福島村
   年魚(あゆ)、鱖魚(さけ)、鯉、樗蒲魚(しらうお)、鯽(ふな)、鰻驪(うなぎ)、
   鰋(なまず)

 伊勢崎風土記
 関重嶷(せき しげたか)
 宝暦6年(1756)9月3日~天保7年(1836)12月17日
 江戸時代中後期 伊勢崎藩家老
 「伊勢崎風土記」、「沙降記」


  享保7年(1722) 七分川(しちぶがわ)と三分川(さんぶがわ)




三分川が 以前&現在 の利根川の流れである
が、延宝年間(1673~1681)に、
大雨で三分川に上流からの土砂が蓄積し、
七分川に流れが変わった。
これにより、戸谷塚村、下福島村は田宅尽く
流没する。






  名和村の田畑は利根川の水を利用することは無く、利根川は「暴れ川」である
 三分川流域の沼之上村(ぬまのうえ 現 玉村町五料)と流れをめぐって両方が幕府へ
 訴えた。享保7年(1722)に幕府は水量を沼之上村側に三分(30%)、伊勢崎側
 に七分(70%)に分けて流すように裁許。以後三分川、七分川と呼称する。


 七分川(しちぶがわ)の足跡を求めて
   戸谷塚町の「名和公園」と富塚町の「七分川公園」を見つける




















  名和公園(なわこうえん) 伊勢崎市富塚町内 面積0.81ha



  名和公園の石碑1

 「七分の大地
   こヽに蘇る」


  伊勢崎市長 下城雄索


  昭和五十九年十一月竣功
       群馬県企業局











   名和公園の石碑2

伊勢崎名和工業団地推進委員会
 会長 内山豊太郎(伊勢崎市議会議員 今井町
 相談役 五十嵐俊夫
撰文 吉田美一(名和小PTA会長 堀口町)
謹書 山田雄彌(伊勢崎市議会議員 福島町
 昭和23年前高卒 昭和26年桐生工専紡織科卒)




  沿 革

  此の土地は戸谷塚七分といわれ昔は松を主とした自然林に覆われていたという。
  時を経て先覚者に依り開墾され大正の時代には耕地整理事業で農地の形態も整えられ、
 永い以後間地域農業の発展に寄与してきた。
  近年農業を取りまく状勢が一段と厳しくなるに及んで生産性の低いこの土地の開発が
 叫ばれるようになった。急遽関係者が鳩首を寄せてその方途を模索する事十数回 遂に
 「地域百年の大計」として七分の地を工業に依って蘇らせようと衆議の一致をみた
  時を移さずその旨を県に陳情・請願を重ねた結果趣旨が採択され、昭和五十六年四月
 群馬県企業局の手に依り工業団地を造成するとの回答を得るに至った。我々関係役員が
 最初の会議を催してより実に八ヶ年、日夜を分たず東奔西走。その努力が見事に実り、
 昭和五十七年五月地権者二百二十七名 二十三ヘクタールの買収完了、同年六月工事着工
 昭和五十九年十一月取付道路を含む総ての工事完了茲に地域開発の第一歩の足音を聴くに
 至った。
  将来、この工業団地が核となって農工共存の理想郷が築かれる日を夢みて今日に至る
 足跡を記す。
             撰文 吉田美一    山田雄彌 謹書
      昭和五十九年十一月三十日
       伊勢崎名和工業団地推進委員会   会長 内山豊太郎



  七分川公園(しちぶがわこうえん) 伊勢崎市富塚町内 面積0.46ha



























  天明3年(1783) 浅間山大噴火
































 天明地蔵尊之碑
 
 天明地蔵尊碑建設委員会 建立
 (災害激甚地嬬戀村および長野原町並に
  戸谷塚町の志有る人々)

  仙台石、高さ2m50cm、巾1m







 天明地蔵尊之碑
 群馬県知事神田坤六題額

 天明三年八月五日午前十一時頃淺間山は春以来の激しい活動に止めをさすかのような大爆発をしたその時火口より灼熱した泥流と溶岩流を噴出し巨大な火の川となって山麓嬬戀村鎌原部落を埋没焼盡(つく)して吾妻川に流入し長野原地区に溢れた泥流はさらに吾妻川沿岸の村村を襲い利根川に合流し午後には早くも戸谷塚の西に達した 死者千数百人家屋橋梁耕地の流出また多大であった
 死人と流出物は戸谷塚区域の利根川浅瀬一帯に打ち上げられたが殊(こと)に悲惨であったのは身元は勿論のこと容貌さえ判別し難い数多くの遺体であった
 戸谷塚村は往古より利根川の洪水ごとに激甚の被害を受けてきた村で特に元禄年間の水害の時は濁流が村内を奔流(ほんりゅう)し土地の五分の四を失うという打撃を受けたがその時寄せられた隣人愛に報い遭難者を収容して慈愛の恩を返すのは此の時であると自からの苦難に思いを致して立ち上がり約七百人の遺體(体)を連日村總出で捜索し懇(ねんごろ)に埋葬したという
 然るに夜な夜なに成佛(仏)できない死者の哭(な)き聲(声)が聴かれたので翌天明四年零細な金銭を出し合い石地蔵尊を建立し果敢なく自然の暴威に命を落した諸霊の菩提を弔(とむら)った
 大正初年耕地整理のため此所観音堂境内に移転したが何時(いつ)しかこの惨事も先祖の美挙(びきょ)も年とともに忘れ去られようとするのを惜しみ噴災百八十回忌を迎えるにあたり更(あらた)めてこれを後の世に傳(伝)え併せて殉難者(じゅんなんしゃ)の霊を慰めるため災害激甚地嬬戀村および長野原町竝(ならび)に戸谷塚町の志有る人々の心暖まる協力でこの碑を建立し百八十年にして始めて子孫が手を結び盛大な供養を行った
 今日なで野に座したまゝ長い歳月を見守ってきた地蔵尊も明日からは此の碑に托してともども美(うる)わしい人と人の世の恩愛を後の世に語り継ぐであろう
 如何なる時代にも人は孤立して生きことはできない見えざる人と人の相互扶助によって生きているのであるがこと非常に際してはじめて明らかとなる知恵ある者は知恵を財ある者は財を力ある者は力を捧げてこそこの世の楽土は築かれてゆくのである戸谷塚の地に建てられた此の碑はこの不変の真理を永遠に教える示標となるであろうことを信ずる

       昭和三十七年十一月七日
                群馬県文化財専門委員 萩原進 撰文
                群馬大学書道教官 米倉大謙 書


  萩原進(はぎわら すすむ) 大正2年(1913)~平成9年(1997)
     享年83歳 吾妻郡長野原町に生まれる
     群馬師範卒、嬬恋村の高小訓導、「天明3年浅間焼け」の研究を行う
     前橋市立図書館長
  米倉大謙(よねくら たいけん) 明治37年(1904)~平成6年(1994)
     享年90歳 利根郡白沢村に生まれる
     旧制沼田中、東洋大学卒 習字科教諭として旧制前橋中、群馬師範をへて
     群馬大学教授 群馬県書道協会を創立・会長


  利根川架橋

 架橋名  架橋年月  長  巾 摘要
 沼・柴間舟橋  明治25年1月25日  80間  10尺  沼は沼の上(現 五料)
 八斗島・山王道間舟橋  明治16年11月  73間  10尺  山王道は埼玉県側山王堂

  明治17年(1884)高崎線が高崎駅まで開通し水上(利根川水系)ルートは徐々に
 衰退した








 昭和51年(1976)10月1日玉村町大字五料
(旧 沼之上村)の一部を伊勢崎市に編入

 「いせさき市政だより」10月1日号より、
 9月6日の官報告示で玉村町大字五料の一部
(利根川左岸)が伊勢崎市に境界変更(編入)され、
 柴町の行政区に編入
  面積0.39平方キロメートル、世帯数8世帯、
 人口39人