伊勢崎銘仙アーカイブス
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 例幣使街道(れいへいし かいどう) 作成中

    例幣使道、日光例幣使(街)道 同じものである


 
  利根川
  那波城
  例幣使街道
  飯玉神社
  今井町 今昔
  銘仙産地 名和村






 管理人が例幣使街道をゆく ?
 (旧 伊勢崎市内 柴町から上蓮町まで)
  いつまでたっても足軽(管理人) 













    ASITA(あした)かるた







 東照公御遺訓とうしょうこうごいくん
  人の一生は重荷を負て遠き
 道をゆくが如し いそぐべからず
 不自由を常とおもへば不足なし
 こころに望おこらば困窮したる
 時を思ひ出すべし堪忍は無事
 長久の基 怒りは敵とおもへ
 勝事ばかり知てまくる事をしら
 ざれば害其身にいたる おのれ
 を責て人をせむるな 及ばざる
 は過たるよりまされり




  例幣使や例幣使街道を学校で教わった憶えはない。

  伊勢崎市の住民になってから、近くに通る国道354号線を例幣使街道と呼んできた。
  (国道354号線は2014年 東毛広域幹線道路の開通により県道142号線に降格)

  例幣使とは、
    漢字「例」の意味は「しきたり」「ならわし」がある  毎年行う
    漢字「幣」の意味は「きぬ」「ぬさ」「神にささげるもの」 幣帛(へいはく)
    漢字「使」の意味は「つかい」「使者」

  例幣使はいつからあるのか?
    「伊勢例幣使」が奈良時代 養老5年(721)に始まった。
    朝廷が毎年三重県伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)に幣帛(へいはく)を奉献
    するため使者を送った。
     しかし、戦(いくさ)等で中断したりし「例(毎年)」でなく「奉幣使」であった。

  「日光例幣使」は徳川家康が逝去後、神になり(1646)から日光東照宮に例幣使の
  派遣が始まる

 西 暦  で き ご と
 1603  徳川家康 征夷大将軍になる
 1616  徳川家康 逝去 享年75歳
 1617  二代将軍 秀忠が日光に家康を神として祀る
 1634  三代将軍 家光が日光社殿の大改築を行う
 1645  朝廷から宮号が授与され東照宮に改称
 1646  例幣使の派遣が始まる
 1867  221年間継続して派遣
 1868  明治政府成立


    例幣使と一行 約50人
    道中奉行
    ルートと日程        
 4月 1日  京都発   朝廷より派遣  
    中山道を倉賀野宿で分かれる   
 4月11日  玉村宿  木島本陣宿泊  
 4月12日  柴宿  例幣使通行  名和村郷土誌
 4月15日  日光着    
 4月16日  東照宮  幣帛奉納  
 4月17日    徳川家康の命日  
     帰路は江戸に寄り東海道  
 4月30日  京都着    

   宿駅 柴宿の組織
     柴宿  柴町・中町・堀口村 の2町1村で構成
     本陣  柴町の関根家
     助郷村 24ヶ村 玉村の2ヶ村(利根川左岸)
     人馬


  例幣使の黒歴史

    入魂料(じっこんりょう)
     例幣使は宿場に対して入魂料の名目で心付けを強要する。

    揺すり 強請(ゆすり)
     例幣使は公卿(くぎょう 公家)になりたてで、収入が少ないものが派遣された
     籠(かご)を揺すって進行を妨げ金品を得ていた 強請(ゆすり)の語源である。

    旅籠屋(はたごや)と飯盛女(めしもりおんな)
     旅籠屋一軒につき飯盛り女(売春を兼ねる)を二人まで置けた。
     女を増やすために、宿主の妻と娘(養女)を加え四人以上で稼いだ宿もあった。

    街道は道中奉行の管理下に置かれインフラ等が整備され、人や物のの行き来が盛ん
    で、宿場は栄えた。

    柴三町の衰退(佐波郡 名和村郷土誌)
   柴三町は例幣使街道に沿ひ、日光廟を去ること三拾六里、旅館其他種々の商店ありて
   頗る盛なりしが、慶応元年日光廟の法会行はるヽとき三宿二十二戸の旅館を設くるこ
   とを許されしが、雇女置くの許しなき為め、大に不便を感じたりしかば、其筋の許を
   得て爾今二名づヽ置くこと得たり、明治六年に至り中町K氏、堀口村T氏発起して是等
   雇女の利用法を講じて、表面は本人に酌婦芸妓の鑑札、主家は諸芸人立入免許を受け、
   大に娼法を営み(柴町四戸、堀口三戸、中町五戸)来りしに、明治九年四月規則改正
   の結果、止むなく之れを廃業し、以来之等の内には料理店を開業し中々盛りしが、盛
   衰常なく今は只堀口村に六戸の料理店あるのみ。
   


  僅か八年間存在した幻の「貨幣博物館」





 宗教法人 仙元神社(せんげん じんじゃ)
  住所:伊勢崎市柴町535番地
  設立:昭和56年(1981)11月











 昭和61年(1986)10月 この地に
 野村記念博物館 仙元神社内極楽殿
 (私設貨幣博物館)を開館

 天正大判・慶長大判・元禄大判等の大判
 国内外の貨幣古銭等が10万点展示され
 ていた




  開設者の野村志郎氏の祖先(曾祖父から)は代々この地 柴宿で金融業(質屋)を営み、
 この傍らに古銭(古泉 こせん)を取集し子孫に受け継いでました。
  野村志郎氏は前中、慈恵医大を卒業し医師で東京で病院を開業し、その傍ら更に古銭収集
 に力を注ぎ新聞やテレビで取り上げられるレベルの収集家としての存在とまでになりました。
  昭和61年10月に75歳の時に野村記念博物館 仙元神社内極楽殿(私設貨幣博物館)を
 故郷の生家に開設しましたが、高齢だったために8年後の平成6年に帰らぬ人となってしま
 いました。
  昭和56年に野村氏が信仰する宗教法人 仙元神社(せんげんじんじゃ)を分祀(ぶんし)
 し単立神社を設けたりしたようでしたが、遺産相続が上手く行かなかったのか、相続税等に
 財産が消えたのか逝去後にすぐに閉館となりました。
  その後、セブンイレブン伊勢崎柴町店(旧)になるが、更に現在は店舗のままで事務所等
 になっている。


  今は、仙元神社だけが鎮座し、南 鳥居で南向きで在るのみ。
     (例幣使街道より南裏の道)





 野村記念博物館 仙元神社内極楽殿
(私設貨幣博物館)
  場所 伊勢崎市柴町535番地
  開館 昭和61年(1986)10月12日
  閉館 平成 6年(1994)
  開館期間 8年



































  館長 野村志郎(のむら しろう)
      明治44年(1911)~
      平成6年(1994)享年83歳
      伊勢崎市柴町に生まれる
      昭和3年(1928)県立前橋中学校卒
      慈恵医大卒 東京都品川区にて医院開業
      古銭(古泉 こせん)コレクター





  博物館の展示物は、日本を代表する貨幣博物館 日銀貨幣博物館等に次ぐもので、
 天正大判・慶長大判・元禄大判等の大判が呼び物で、国内外の貨幣古銭を中心に、
 野村志郎氏の所有する様々のコレクションが10万点展示されていた。





 柴宿本陣跡

  (しばじゅくほんじんあと)伊勢崎市指定史跡
  所在地 伊勢崎市柴町524




 柴宿本陣跡
    昭和四十一年四月十二日指定
 日光例幣使街道は、中山道倉賀野宿から分
岐して壬生通りの楡木宿に至るまでの十三宿
で、柴宿はこの三番目の宿場であり、関根家
が代々本陣経営に当たっていました。





 本陣は元来、高級武士や公卿の宿泊休憩施
設として設置されたものです。構造は近世の
武家住宅を基本として、これに、店舗的要素
を加えて発達した一種独特の機能を有する建
物で、柴宿本陣も概ねこの例にならっています。
 なお、関根家には本陣当時の文書類、調度品
が数多く残されており、近世交通史上貴重な
資料となっています。
        平成九年十二月十五日
          伊勢崎市教育委員会



  柴宿本陣は文化12年(1815)に再建され、例幣使街道に残る数少ない本陣遺構で
 あったが、昭和46年(1971)2月に主屋、翌年5月には長屋がそれぞれ解体された。








  柴宿本陣跡の西隣りに
 柴町住民センター(伊勢崎市柴町526)
 が在り、大きな説明板が設置されている。



























 報織会結成五十五周年記念碑

  (ほうしょくかい けっせい)
  所在地 伊勢崎市下道寺町1-1

   昭和62年(1987)除ケ町の平田達男氏が理事長の時代に報繊協同組合の事務所
  建設予定地に建立した
   平田達男氏のご長男が医院長を務める豊受歯科クリニックの脇に建立されている




碑文
 報繊会結成五十五周年記念碑
  伊勢崎織物
 大絣発祥の地

  伊勢崎市長 下城雄索 書







 忠治茶屋(ちゅうじ ちゃや)


 

  所在地 伊勢崎市上蓮町(かみはすちょう)657
  電 話 0270-32-0124
  時 間 9:00~ 17:30 休 火曜日
  詳しくは ホームページ

   昭和35年(1960)櫻場勝美氏 伊勢崎市馬見塚町で和菓子等の製造販売を
              個人営業で開業
   昭和45年(1970)(有)グッピーを設立し法人成り
   平成16年(2004)(有)グッピーを組織変更し、(株)忠治茶屋





  駐車場の車両は、市外・県外が多く
 前橋・高崎 それに 熊谷のナンバーが
 あった。












  国定忠治をかくまった
 西野目宇右衛門(にしのめ うえもん)の
 母屋解体の際の資材を譲り受け使用し
  店名も「忠治茶屋」とした。











  ひさびさの「あん入り焼きまんじゅう」
 一串に饅頭が三個ついて280円(税込)












 伊勢崎の住人になって、餡(あん)入りの
焼きまんじゅうを知った
 甘い餡(あん)と塩気のある味噌だれとの
絶妙な加減が最高である。






  地元ベイシアグループのコンビニ「セーブオン」で平成26年(2014)から一部の
 店舗(6店舗)で「忠治茶屋」とコラボし焼き立ての焼きまんじゅうが販売されました。
 運よく我が家の近くのセーブオンでも販売されよく買いに行きました。
  しかし、4年後の平成30年(2018)セーブオンの全店がローソンに転換すると、
 焼きまんじゅうの販売は廃止されました・・・残念。


  「忠治茶屋」・・・思い出

   創業者の櫻場勝美氏 氏は令和3年(2021)に90歳で逝去されました。

   私がお会いした平成5年(1993)の頃、当時氏は有限会社グッピーの社長でした。
   当時両毛地区のエリアに販売が強く、東武鉄道駅構内売店へも納品していたと聞いた。
  現在でも太田市にはグッピーを冠した焼きまんじゅう店が数社存在しているようだ。
  また、私は氏に佐野市へ佐野ラーメンの隠れた店を案内されたことがある。
  氏に最後に会ったのは平成20年(2008)玉村町のプールでした。


   二代目 櫻場弘美氏  優れた企画力と実行力

      When he was in high school      He always carries an English dictionary with him.
       He is currently Vice Chairman of Isesaki CCI.



 平成15年(2003)1月11日 「上州焼き饅祭
  (じょうしゅ やきまんさい)」を企画立案
 平成16年(2004)11月「めん大会」を行い
   「上州のおっきりこみ」を売り込む
 平成19年(2007)6月2日 国定忠治等の子孫で
   手打ち式を行い、氏は仲裁人を務める
   詳しくは「いせさき忠治だんべ会
 平成21年(2009)元旦 股旅スタイルでニューイヤー
   駅伝を伊勢崎中継所で応援


    上州焼き饅祭


   三代目 櫻場裕太  令和2年(2020)2月 社長に就任

    令和6年(2024)1月
     焼きまんじゅうギフトボックス『八起萬寿(やきまんじゅう)』商標登録 Ⓡ 発売




 日光例幣使街道 右赤城(みぎ あかぎ)













































































      右 赤 城

 毎年旧暦の四月一日に京都を出発した例幣使の一行は、中山道によって倉賀野宿(高崎市)に至り、この宿の分か去れの辻(追分)から日光例幣使道に入りました。この道では、行列は日光に向かって東に進むので、常に赤城山は左手に見えました。
 柴宿から馬見塚の村外れにくると、道は西に向きが変わります。すると、行列の右手に赤城山を望むようになりました。
 ここが日光例幣使道でただ一か所、右に赤城山が見える所で、例幣使や上方(近畿地方)にも知れ渡った「右赤城」なのです。
 この道の先には道標があり、「東 日光道 右 五りやう(五料) 左 ほん志やう(本庄)」と刻まれています。


                      平成十七年三月
                      例幣使まちづくり会議