語り伝えたい 吉沢惟雄先生 |
「赤ひげ先生」の如く、貧しい人からは診察代・薬代は受け取らなかった 東京帝国大学医学部出身の医学博士で結核の先端医療を行い、患者は関東一円からも 訪れ、両毛線 伊勢崎駅の乗降者の半分は吉沢先生の診察が目的であった 吉沢広瀬の雅号で俳句を詠むほか、文学・芸術を通して伊勢崎市の文化に多大なる 貢献をされた |
氏名 | 専門 | 生没年 | 経歴 |
吉沢惟雄 よしざわ これお |
結核治療 県会議員 俳句 |
1885 明治18 ~ 1974 昭和49 |
母は小暮英三郎(伊勢崎銀行 初代頭取)の三女、 明治37年前中卒、旧制一高、大正元年東京帝国 大学医学部卒、同大にて結核の研究 医学博士 関東大震災で帰郷し三郷村安堀に吉沢医院を開業 昭和17~22年県議会議員、雅号を「広瀬」 広瀬川畔に句碑がある |
西暦 | 年齢 | 出来事 |
1885 明治18年 |
0 | 8月25日 父 吉沢浜雄、母 和歌の長男として誕生 |
1893 明治26年 |
8 | 1月28日 父 浜雄32歳(伊勢崎赤石小学校校長)結核で逝去 |
1899 明治32年 |
14 | 4月 群馬県立前橋中学校入学 同級生には野球の鈴木惣太郎を雇用し米国に派遣した小松晋助、 我が国で最初の資本論完訳者 高畠素之 前中の寄宿舎に5年先輩の山田伊三郎と同舎 クリスチャンの叔父に連れられ伊勢崎教会の富永徳磨牧師の説教を聞く |
1904 明治37年 |
19 | 3月 同校卒業 |
1908 明治41年 |
23 | 3月 東京第一高等学校卒業 4月 東京帝国大学医学部入学 佐波郷友会寄宿舎へ入舎 監督 中島徳蔵、寮長 武孫平、同寮舎 中沢豊七、 徳江交次 等 |
1912 大正元年 |
27 | 12年 東京帝国大学医学部卒業 千駄ヶ谷の下宿に移転、後に中沢豊七と同居 東京帝国大学医学部 内科副手、東京市養育院内科勤務 時々、同郷の高橋孝太郎 等とテニスをしていた |
1916 大正5年 |
31 | 5月15日 篠沢克子(21歳)と結婚、媒酌人 中島徳蔵、 仲介者 山田伊三郎 所帯を篠沢家に持つ 東京帝国大学伝染病研究所において結核病及び細菌血清学の研究に専念 |
1918 大正7年 |
33 | 3月 ソ連 ウラジオストクの米国赤十字社に1年勤務 |
1923 大正12年 |
38 | 3月5日 東京都千代田区麹町に吉沢内科医院開業 9月1日 関東大震災で病院焼失、三郷村安堀へ家族で身を寄せる |
1924 大正13年 |
39 | 1月 生家を一部改築し三郷村安堀で吉沢内科医院開業 2月 佐波看護婦学校で細菌学を講義 7月 東京帝国大学医学部より博士論文「実験的結核病に対するツベルク リン及び結核病体成分の影響」が通過し医学博士授与 |
1942 昭和17年 |
57 | 7月 群馬県会議員に当選 |
1947 昭和22年 |
62 | 5月 母 和歌 逝去 83歳 |
1955 昭和30年 |
70 | 11月 群馬県知事より功労者表彰 結核病治療に尽力された功績 |
1960 昭和35年 |
75 | 1月 恩師 倫理学者 中島徳蔵先生 分骨墓石碑建立 |
1970 昭和45年 |
85 | 日本俳画協会 展覧会において俳画「ぼたん」が金賞を受賞 |
1973 昭和48年 |
88 | 吉沢広瀬句集「合歓の花」刊行 |
1974 昭和49年 |
89 | 10月22日 吉沢惟雄 逝去 89歳 菩提寺 普光寺(ふこうじ 安堀町) 遺志により戒名は謚られず 吉沢惟雄霊とある |
1978 昭和53年 |
3月 故広瀬吉沢惟雄先生句碑建立記念誌 発行所 伊勢崎郷土文化協会 |
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1979 昭和54年 |
3月 郷土人物叢書③ 吉沢惟雄伝 編著者 長谷川龍雄 発行所 伊勢崎郷土文化協会 |
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1987 昭和62年 |
11月21日~23日医学博士吉澤惟雄先生遺作展 於 三郷公民館 主催 伊勢崎市社会福祉協議会三郷支部 |
主な公職・団体役職等 | 就任 | |
1 | 群馬県会議員 | 昭和17年~昭和22年 |
2 | 伊勢崎市教育委員 | 昭和30年 |
3 | 群馬県原水爆禁止運動協議会会長 | 昭和30年 |
4 | 伊勢崎郷土文化協会会長 | 昭和37年 |
5 | 伊勢崎市立図書館新館舎建設促進協議会会長 | 昭和38年 |
校医、村医、 | 大正13年 | |
伊勢崎庭球クラブ会長 | 昭和6年 | |
伊勢崎俳句研究会主宰 | 昭和25年 | |
伊勢崎チャーチル会会長 | 昭和40年 |