伊勢崎銘仙アーカイブス



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 錦秋の飯能へ、飯能銘仙と渋沢平九郎の足跡を求めて 令和3年(2021)秋

 銘仙産地比較 飯能銘仙

    飯能(はんのう) 埼玉県飯能市





 飯能銘仙の生産推移

明治38年(1905)~
昭和27年(1952)

 生絹(きぎぬ)
 銘仙(めいせん)
 白斜子(しろななこ)男物の羽織地






   生絹は大正6年(1917)に205,063疋、昭和14年(1939)には241,595疋を生産
  女物の銘仙は、男物の羽織地 白斜子(しろななこ)と入れ替わり生産増 昭和9年(1934)
  の91,601疋がピーク

   生絹はセリシンを落とさない生糸を使って織った平織物である。
  一般には、薄く・軽くて着物の裏地(胴裏・八掛等)に使用される。
  飯能では200匁(もんめ)以上の重目が生産され、染めて表地にも使われた。



  全国銘仙(11産地)生産統計(単位:千疋 疋=2反 全国銘仙連盟会調査)

西 暦   和 暦 飯 能   合 計
1912 大正  1  45  1,454 
1913  53  1,574 
1914  32  1,348 
1915  31  1,719 
1916  37  1,933 
1917  42  1,915 
1918  54  2,334 
1919  63  2,959 
1920  65  2,739 
1921  10  72  4,758 
1922  11  67  4,501 
1923  12  65  4,685 
1924  13  65  4,325 
1925  14  67  3,897 
1926  昭和 1  63  4,075 
1927  62  4,662 
1928  84  5,533 
1929  64  5,396 
1930  80  6,522 
1931  67  6,379 
1932  56  6,338 
1933  70  5,700 
1934  87  5,646 
1935  10  79  4,521 
1936  11  63  2,190 
1937  12  29  882 
  合 計  1,573  97,983 
構 成  比率%  1.6  100.0 

  明治42年(1909)飯能織物同業組合は綿布派と絹布派に二分された。
 絹布派も従来からの生絹に執着するものと、銘仙の高級化を図るものに分かれた。
 大正時代に銘仙派は「伊勢崎絣」の技術を導入し「飯能大島」を生産した。


 飯能市立博物館で「飯能銘仙」の足跡を発見

 飯能市立博物館
  飯能市大字飯能258-1
  電話 042-972-1414

  常設の歴史展示室

   





  飯能市立博物館の図書室で、「飯能市史 資料編Ⅹ(10)」P226~229
  (二)飯能地方の織物
   (イ)銘仙が製織される
   (ロ)織物同業組合の成立



 飯能を代表する「織物関連建物」 3棟を訪ねる


 店蔵絹甚(みせぐら きぬじん)
  飯能市本町2-2
  電話 042-972-3377

  30cm以上の土壁による耐火建造物
  梲(うだつ)が上がっている

  明治37年(1904)建築

  絹織物、生糸、繭、蚕種を販売









 銀河堂(ぎんがどう)
  飯能市本町1-4
  電話 042-972-0492

 明治後期に建築された絹問屋の店蔵を
 リニューアルした蔵カフェ
 カレーが人気







平成29年(2017)10月27日
国指定 登録有形文化財(建造物)

 飯能織物協同組合事務所棟
(はんのうおりものきょうどうくみあい
 じむしょとう)

  
飯能市仲町31









 渋沢平九郎の足跡を求めて


 飯能市 能仁寺(のうにんじ)「振武軍(しんぶぐん)碑」



 題額 「唱義死節  義を唱え節に死す」
 渋沢敬三(日本銀行総裁)
 *渋沢敬三は渋沢栄一の孫

 撰文:尾高豊作(埼玉銀行頭取)
 *尾高豊作は尾高惇忠並びに渋沢栄一の孫
















 案内板












 案内板
 飯能戦争
 慶応4(1868)年正月の鳥羽伏見の戦いで敗れ、「朝敵」となって、江戸に戻った徳川慶喜、
 上野の寛永寺に謹慎した。一橋家の家臣を中心とする旧幕臣たちは、主君の汚名をそそがんと
 「彰義隊」を結成し、上野の山に入った。しかし、彰義隊の頭取であった渋沢成一郎(喜作)
 は副頭取の天野八郎らと対立し上野を去り、5月初旬に田無村(西東京市)で「振武軍(しん
 ぶぐん」を結成する。300人ほどとなった振武軍は田無で周辺の村から四千両を超える軍資金
 を調達し、箱根ヶ崎村(西多摩郡瑞穂町)に移った。その後、新政府方の攻撃を受けた彰義隊
 の援軍に江戸に向かったが間に合わず、田無で上野戦争の残党などと合流して、5月18日飯能
 の町に現れた。振武軍など旧幕府方は、能仁寺に本営に、智観寺、広渡寺、観音寺など六つの
 寺に駐屯した。一方、明治新政府は、福岡・久留米・大村・砂土原・岡山の五つの藩に旧幕府
 方の追討を命じ、これらの藩兵は5月22日扇町屋(入間市)に入った。







 飯能戦争で若くして散った幕末のイケメン
  渋沢平九郎(しぶさわ へいくろう)
 弘化4年(1847)11月7日~慶応4年(1868)5月23日
 享年22歳(満20歳)


  尾高淳忠(富岡製糸場 初代場長)の弟
  渋沢栄一の見立て養子


  写真は「尾高淳忠生家」パネル
  深谷市下手計(しもてばか)236
   *手計は手墓(はか)が変じた







 「尾高淳忠生家」全景

 尾高家は多くの人材を配す

 尾高淳忠(富岡製糸場 初代場長)
 尾高千代(後に 渋沢栄一の妻)
 尾高平九郎(後に 渋沢栄一の養子)
 尾高ゆう(富岡製糸場の工女)




  二階左側の部屋で「高崎城乗っ取り計画」等の密議をしたと伝わる





  渋沢平九郎 追懐碑(ついかいひ)

  建立場所 旧渋沢邸「中の家 なかんち」地内
       渋沢栄一生家
       深谷市血洗島247-1










































 渋沢平九郎年譜
 西暦  年齢  出来事
 弘化4年
1847
 11月7日 父 尾高勝五郎 母 やえ の 7人兄弟・姉妹の末っ子
として誕生 諱(いみな)を昌忠(まさただ
 安政5年
1858
11  12月7日 姉 尾高千代(18歳) 渋沢栄一(19歳)と結婚する
婚姻後、父 尾高勝五郎(名主) 心臓病で逝去 享年56歳 
 文久2年
1862
15   尾高家二階にて
尾高・渋沢一族を首領とした「天朝組」は高崎城乗っ取りを密謀
 文久3年
1863
16   10月下旬 尾高長七郎の説得により
 高崎城乗っ取り・襲撃計画を中止する
 元治元年
1864
17   6月5日 尾高淳忠・平九郎 水戸天狗党との関係を疑われて捕られ
手枷(てかせ)をかけられる
 慶応2年
1866
19   11月 渋沢栄一 パリ万博に昭武の世話係として随行が決まる
 慶応3年
1867
20   1月11日 渋沢栄一 パリ万博に向け横浜出港
渋沢栄一 尾高平九郎を見立養子(洋行の際の制度)に決める
10月14日 徳川慶喜 大政奉還
 慶応4年
1868
21   1月3日 戊辰戦争始まる(鳥羽・伏見の戦い)
2月11日 徳川慶喜 新政府に恭順の意を表す
2月23日 渋沢成一郎(喜作) 彰義隊頭取
4月26日 渋沢一族 彰義隊より離脱し振武軍を結成
      渋沢成一郎(喜作)隊長
      尾高淳忠(新五郎)参謀長
      渋沢平九郎    軍目付
5月15日 彰義隊、上野で新政府軍に敗北
5月23日 振武軍 渋沢平九郎 自刃(じじん)享年22歳(満20歳)
     
 明治元年
1868
   9月8日 明治天皇即位
11月3日 横浜帰港 渋沢栄一 パリ万博より帰国
11月18日 尾高長七郎 逝去 享年31歳 出獄後、病死
 明治2年
1869
   5月18日 戊辰戦争終わる(五稜郭の戦い)
 明治34年
1901
   1月2日 尾高淳忠 逝去 享年70歳
 明治44年
1911
   6月 帝国劇場にて渋沢平九郎を主人公した「振武軍(しんぶぐん)」
を上演
 昭和6年
1931
   11月11日 渋沢栄一 逝去 享年91歳
 昭和61年
1986
   10月 渋沢平九郎を主人公にした小説「彰義隊落華(しょうぎたい
らっか」発行 著者 渋沢華子(渋沢栄一の孫)
 令和3年
2021
   2月6日 「歌劇 幕臣 渋沢平九郎」上演 深谷市民文化会館大ホール






   渋沢平九郎を主人公にした小説
  「彰義隊落華(しょうぎたいらっか」
   著者 渋沢華子(渋沢栄一の孫)















 実訪日 2021年11月13日